ネコと旅とラフロイグ

しおふきんちゃんの備忘録

独身でいること

 もう何年も恋愛をしていない。40も半ばに差し掛かると、大人らしく「恋愛というより安心感のあるパートナー的な関係性」という方が主流なのかもしれないけど、私の恋愛観が幼稚なせいか、後にパートナーになる相手だとしてもやっぱり初めはときめいたりエロい気持ちになったりしたいと思ってしまう。

 30代後半ぐらいに、知人たちに独身男性を次々と紹介してもらってデートしてみた時期があった。「こんないい人がよく独身でいたな」と思うほど素敵な人もいた。でも初めから「この人と恋愛できるかな、一緒に暮らせるかな」と考え過ぎてついつい減点法で相手を見てしまい結局誰とも続かなかった。この時期に、昔ちょっとだけ付き合っていた男友達に何年ぶりかに呼びだされ「海外赴任についてきて欲しい」とプロポーズされたこともあったが、交際4か月で国際結婚した挙句離婚した経験のある私には、突然のプロポーズに身をゆだねるほどの勇気も体力ももう無かった。

 そんなことがあってから、一応ひと通りの事はやるだけやったという気持ちも手伝って積極的に再婚相手を探すことをすっぱりやめた。当たり前の事だけど、40過ぎて受け身で過ごしている女にそうそう出会いなんかやってこない。いつもの酒場の顔見知りと突発的な関係になったり、仕事で知り合った男性と何となく数回ご飯なんか食べに行ってフェードアウトしたり、元彼と久々に会ってみたりの繰り返しで、いわゆる大人の女性がすべきまともな(安定した)恋愛とは無縁な生活を送っている。

 20代の自分が一体どんな40代の恋愛事情を想像していたかはよく覚えていないけど、今のようなものではなかったことだけは確かだ。20代の私はきっと、40代なんてもう恋愛からはとっくに卒業して、夫と老後の計画を立てているだろうくらいに思っていたのだろう。そして実際の私は、夫とではないけれど、ひとりで老後をどうやって過ごそうかという方向に思考がシフトしてきている。仕事が大変だったり身内の悩み事があったりプライベートが寂しすぎたりして、やっぱり支え合うパートナーがいたらいいのにと思う事も少なくないけど、まだギリギリ独り身の気楽さと自由さがそれを上回っている。また、最低限の幸せな結婚生活というものを一度は手に入れかけて失敗した自分が、今後またそれを手にすることが出来るとは到底思えないというのもある。

 あくまでも私の肌感覚なのだが、ここ数年で人の生き方に対する世間の許容範囲がぐんと広がったのを感じる。手垢のついた言い方かもしれないけど、大企業に就職して安定しろとか、30過ぎて独身はおかしいとか、結婚してるのに子どもを産まないのかとか、同性愛は認めないとか、そういう事を声高に言う人たちが「前時代的」とされるようになり、そこに当てはまらない生き方をする事が(少なくとも都市部では)以前ほど息苦しくなくなってきているという実感がある。少子高齢化もあり、好むと好まざるとに関わらず、親世代と比べて独りで老後を迎える人たちも格段に増えて社会の受け皿も変化していくだろうし、健康とお金さえ大切にしていれば”自分だけがものすごく孤独”という事態は避けられるのではないかと少し楽観視もしていたりする。(その健康とお金の維持が一番難しいんだけど。)

 そうやってこのまま独身でいる事に対して自分なりに折り合いをつけて日々過ごしているのだけど、人ごみの中で同年代の夫婦やカップルとすれ違うたびに「どうして自分には大多数の人たちが当たり前に出来ている事が出来ないんだろう」というコンプレックスのようなものをうっすらと感じてしまうのだけは、どうしても止められないのだ。

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ハワイの空港にて

ホノルルの空港のスポーツバーで、キンキンに冷えたビールを飲みながらこれを書いている。

5日間の休みが取れるかどうかギリギリまでわからなかったけど、何となく目星をつけていた出発日の2日前に「どうやらこのままいけば休めそうだ」と確信し、慌ててエアーとホテルを予約した。直前の予約にしては安い航空券があり、更には前に泊まってとても快適だったホテルが、今は訳アリなせいか結構なディスカウント価格で出ていた。その訳アリとは現大統領のホテルで、ちょうどニュースで炎上していたこともあってか(いつもだけど)当然アメリカ人宿泊客はほとんどいなくてアジア人ばかりだった。タクシーの運転手さんにも「トランプホテルなんか泊まるの(笑)?!」と揶揄されたし、もちろん私も彼のことは嫌いだけど、それとお得な料金とはまた別の話だ。(実際部屋もサービスもとても良い)

 

ハワイは4度目くらいだが、今回の旅はとりわけ穏やかに過ごした。

初めてハワイに行ったのは学生の頃だ。母方の親戚一同で祖母も連れてハワイに行こうという事になった。母(当時50歳前後)がワイキキの海で溺れそうになって現地のライフガードに助けられたり、いとこのお兄ちゃんが飲み過ぎてホテルの部屋でぶっ倒れたり、私がバドガールみたいなセクシー服を着て行ったために空港で厳しく荷物検査を受けたり(まあそれが原因てわけでもないんだろうけど)と、今考えるととんだ珍道中だったと笑ってしまう。

まだ海外旅行というものに大きなトキメキを感じていた頃で、空港に到着した時にワクワクしたのを覚えているし、パラセーリングを楽しんだり、姉といとこと水着で浮かれた写真を撮ったり、朝ABCストアでオレンジジュースとサラダを買ってハワイの生暖かい風に吹かれながら食べるだけでも感動できた。写真を見返すまでもなく、どこに行って何に感動してどんな会話をしたか、今でも記憶に残っている。

 

それが今回の旅では、自分でもびっくりするほど感情の波が“凪”状態だった。仕事も含め海外経験が格段に増えたこともあり、まずトラブルが何も起きない。旅慣れて用意周到になり、物事にも動じなくなると、旅先でも淡々と時が過ぎていく。「非日常感」というのは休暇に旅をする上でとても大切な要素だと思うのだがそれを感じる神経がマヒしてしまっているようだ。

年を重ねるにつれて感受性が鈍くなる、という話は前にもしたと思うけど、特に35を超えた辺りから昔と比べて新しい本や映画や音楽に触れても心を動かされることが少なくなったという実感がある。

と、ここまで書いて帰国したところに、Twitterのタイムラインに「ほとんどの人は30歳になるまでに新しい音楽を探さなくなる(出典amass.jp)」という記事が流れてきた。記事によると、“人は年を取るにつれて…(中略)昔の曲やジャンルを何度も繰り返し聴く「音楽的無気力」とも言える現象が起き”るのだそうだ。

 

それで言うと、今の私は音楽だけでなく本や映画に対しても無気力期を迎えているし、恋愛に関しても同じだ。10代から30代前半までは常に胸が苦しくなるほど好きな人がいて「私、一生こんなにキュンキュンし続けたら身体がもたない」と不安に思うくらいの恋愛体質だったが、ここ7~8年ぐらいは胸が苦しくなるほど好きになった人など一人もいない。時々、「もうこのまま誰かを狂おしいほど好きになったり、他人をどうしようもなく愛おしく想うことなく一生を終えていくのかな」とふと寂しい気持ちになる。

 

40過ぎにもなってティーンエイジャーみたいな繊細な感性を持っていたら生きづらくてしょうがないと思うけど、見聞きするもの全てに心が動かされたあの頃を懐かしく思い出してしまう。歳を重ね、人生経験を積んで、人間として熟成していくのは決して悪くない。ただ、時々自分の経験則を取っ払ってもっと無邪気に物事を楽しむことができたら、年々色褪せつつある日常の風景も少し彩を取り戻すのではないかと思うのだ。

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「親友」のこと

友達がたくさんいた方が楽しい、などという考えは元々持っていないけど、最近は数少ない友人とすら定期的に連絡を取るのが億劫になりつつある。15年来の仲で1~2か月に一度は食事をしながら近況報告をするのが当たり前になっていた女友達にも、私から連絡すると言ったまま4か月ほど連絡をしていない。彼女も私に何らかの心境の変化があったのだとおそらく察していて、そこの説明をしなければならない事を考えると連絡を取るのが更に億劫になってしまう。

 

少なくとも表面的には社交的なタイプで、男女問わず気になる人がいると「どんな人なのかもっと知りたい」という気持ちが湧いてくるので、仕事などで知り合った人を私から食事に誘ってみたりすることは割と多い。そこから意気投合して時々飲みに行ったり、何かイベント事があると声を掛け合ったりする仲になったりもするが、人間関係に対してマメな方ではないので、一定期間を過ぎるとだんだんと受け身になっていき、そのうち疎遠になってしまう。そういう“知人”はたくさんいて、むしろそのくらいの距離感の人とは「ふと思いだして連絡してみたんだけど今日空いてないよね…?」みたいな事で久々に誘ったり誘われたりしてまた関係がアップデートされると、こういう関係もいいなと心地よく感じたりする。

 

“知人”のパターンとしてもう一つよくあるのが、酒場のスタッフや常連客との関係だ。私は引っ越しをする度に近所の良い酒場を異常な嗅覚で見つけ出し、そこへ夜な夜な独りで呑みに行くというのを趣味にしているのだけど、気に行ったお店のスタッフや話の合う常連客と連絡先を交換しても、店外で会うことはほぼない。

お店が休みの日にスタッフと客でバーベキューとか忘年会などやっていてもまず行かないし、「今度ご飯行こうよ」などと誘われてもはぐらかすことがほとんどだ。それは私にとって酒場というのが「自分の行きたいときに行って帰りたい時に帰ることができる」便利な社交場であり、その場にいる登場人物と他の場所で会ってしまうと、この特別な空間における人間関係のバランスみたいなものが崩れてしまうように感じるからだ。こう言うと非常に利己的に聞こえるかもしれないけど(実際まあそうなのだけど)、酒場での人間関係は酒場で完結させておいた方が色々と物事がスムーズにいくし、気に行ったお店に通い続けるためにもそれが賢明な選択なのだと、独り呑み歴13年の経験から感じている。

という訳で、常に近所には「顔見知りのスタッフがいつ行ってもそこそこ歓迎してくれ、愚痴とか最近あったどうでもいい出来事を半分聞き流しながら聞いてくれて、たまたま隣に座った見知らぬ客と『さっぽろ一番の味噌、塩、しょうゆの中で一番美味しいのはどれか?』について延々とやり合う」ことの出来る酒場が2~3軒あって、その存在は私の生活に欠かせないものになっている。

 

そんな“都合の良い酒場”の存在も後押ししてか、最近一部の友人との人間関係が煩わしくて連絡があっても返事をしない事が多いし、何となく腐れ縁的に続いていた男友達とも会うのを止めたし、SNSで時々連絡が来る幼少期や学生時代の集まりにも顔を出さなくなった。ふと「私は無意識に身辺整理をしているのではないか」と不安になったりもするが、何となくそういう時期なのだと自分に言い聞かせている。

 

私のような人間にとって、「親友」とか「友情」という言葉は危険な言葉だ。小学生の頃にクラスメイトに無視された時も、中学時代に仲良し3人組のバランスが崩れた時も、高校時代に好きな男子の相談をしていた友達に彼を取られた時も、“親友とは常に清廉で、相手の事を思いやるべき存在”という概念に苦しめられた気がする。特に思春期の女子は「私たち親友だよね」などという事を言いたがるものだし、大人になってからも「幼少期からの親友」というものを必要以上に崇高に考える人は(私を含め)多いと思う。

だけど大人になり、人生の転機を何度か迎え、「ライフスタイルや環境が変わりお互いの価値観や考え方も変化していくにつれて、親友が親友でなくなっていくのは当然の流れだ」と考えるようになった。それに伴い、「親友」という言葉自体もあまり使わなくなった。

 

今の私には、とにかく人として好きで一緒に居て落ち着く友人や、仕事や物事に対する価値観を共有できる楽しい友人が数人いる。彼らとずっと友達でいたいという気持ちはもちろんあるけど、時の流れと共に通り過ぎていく人もいるだろう。

友達というものはお互いの人生の中で自然淘汰されていく側面もあって、それは必ずしもネガティブな事ではないような気がする。そしてだからこそ、そんな流動的な人間関係の中でいま自分の周りにいる好きな人たちと出会い、友達になることが出来たのは、奇跡であり必然なのだと思うのだ。

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知らない大人のこと

小学校4年生くらいの頃に、知らない人の家を訪ねるのがマイブームだったことがある。

今考えるとものすごく危険だし迷惑な行為なのだが、毎日近所の女の子たちと自転車で公園に行ったり縄跳びをしたりシロツメクサで王冠を作ったりすることに飽きてきた私は、大人の友達が欲しいと思うようになった。(お子さんがいらっしゃる方にとってはヒヤヒヤする話で申し訳ないです。今より少しのんびりした世の中だった頃の話です)

 

当時、都内の住宅街に住んでいた私は、近所の商店街に囲まれたエリアを歩きまわり、住人が庭に出ていると話し掛けてみる、というのを繰り返していた。同級生の家や子どもがいる家は避け、優しそうな人を選んで「何してるの?」と柵越しに声を掛けてみる。すると大抵の人は「庭の草をむしってるんだよ」とか「猫に餌をあげてるんだよ」とか返事をくれ、ヒマを持て余したおばちゃんが家に招き入れておやつを出してくれることもちょくちょくあった。それはそれで楽しかったが、当時の私にとって、おやつを食べる姿をニコニコ見ながら「学校は楽しい?」とか質問されるのは何だか子ども扱いされているようで少しくすぐったかったし、かと言って息子のグチを延々と聞かされるのもいまいちピンとこなかった(実際そういうおばあちゃんもいた 笑)。

私が求めていたのは、普段家でも学校でも接することのない二十歳前後の「お姉さん」や「お兄さん」との出会いだったのだと思う。でもそうした人たちはたぶん大学生や社会人をやっていて、平日の昼間に家でヒマそうにしているのを見かけることはほとんどなかった。

そんな中、今でも印象に残っている“大人”が2人だけいる。

 

1人は整骨院の裏の茶色い家に住むお姉さんだ。その家は周辺の家に比べて大きく、横に幅広い形をしたロッジ風で、私は通るたびに気になっていた。そこの娘だという短大生のお姉さんとどうやって知り合ったのかはよく覚えていないが。初対面で家に上がらせてもらった後もちょくちょく訪ねて行った記憶がある。

ひんやりした薄暗い廊下と急な階段、小さい木のベッドがあるお姉さんの部屋。そのお姉さんは遊びに行く度にガラスの小物入れだとかレモンの香りのコロンの小瓶だとか、ちょっとした物をポンポンくれるのだが、当時の私にとってそれらは宝物のように感じられ、「大人の女の人ってスゴイなぁ」と憧れの気持ちを抱いていた。

半年ほど経つと、訪ねていっても留守な事が多くなった。たまたまヒマな時期だったのが終わったのか、子どもと遊ぶのに飽きたのかはわからないが、私も次第にお姉さんの家には行かなくなった。

 

もう1人は公園の近くの古いアパートに住むお兄さんだ。真夏の暑い日、公園からの帰り道にふと見ると、アパートの1階の窓が全開になっており中には黒いTシャツ姿でうちわをパタパタする男の人がいた。男性の年齢や職業なんて10歳の私には知る由もないが、記憶の中のイメージを辿ると平日休みの仕事をしている20代半ばくらいの営業マン、という雰囲気だったように思う。窓越しに「何してるの?」「暑いからゴロゴロしてるんだよ」みたいな会話の後、私はお兄さんの部屋の万年床に座り砂糖入りの麦茶を飲みながら、彼がカセットテープをひとつずつ見せて知らない歌手の話をしているのを聞いていた。

今の感覚なら、20代の独り暮らしの男性が知らない小学生の女の子を部屋に入れるのは「アウト」だと感じるのだが、当時の私の判断力がそこまでではなかったのか、時代なのか、それとも幼いながらに「このお兄さんは大丈夫」と感じたのかわからないが、その後もお兄さんのお休みの曜日を狙って何度か部屋に遊びに行った。

お兄さんは特別子ども好きという感じでもなく、いつも私との歳の差なんか意に介さない様子で自分の好きな音楽(確か佐野元春尾崎豊かなんかのファンだったと思う)や好きな食べ物といったとりとめのない話をしてくれて、兄のいない私はいつも新鮮な気持ちで話を聞いていた。

何度めかにお兄さんの部屋に遊びに行った時、いつもの砂糖入り麦茶を出された私は、だいぶお兄さんと仲良くなっていたことも手伝い、からかうような口調で「何で麦茶にお砂糖なんか入れるの?美味しくないよ~」と言った。するとお兄さんは「何だと~?」とふざけて私のお腹をくすぐってきた。その瞬間、私の中でお兄さんに対する得体のしれない不安感や嫌悪感が一気に膨れ上がった。

 

確信を持って言えるが、彼の中にいかがわしい気持ちは一ミリもなかったと思う。むしろ彼にとってそのしぐさは、普段接し慣れない小学生の子どもに対して初めて見せた、「子ども相手らしい」しぐさだったはずだ。でもそれまで私を“傍観者”かのように無機質に接してきたお兄さんが、初めて私を“女子小学生”と認識して接してきた事で、私の中で彼の存在が生々しいものに感じられてしまったのではないかと思う。(もちろんこれは30年以上経っての何となくの分析だけど。)

私はぎこちなく麦茶を飲み干すと「もう帰らなきゃ」と言ってアパートを出た。息を切らして家まで一気に走ると、その後お兄さんの部屋には二度と行かなかった。

 

昔の断片的な記憶がよみがえってくる度に、本当に色々な出来事があったなぁと思うのだが、特に小学生から中学生にかけての自分の行動は危なっかしくてしかたがない。よくもまあ奇跡的に大人になれたと思う。そして道行く大人たちがみんなそうした危なっかしい時期を生き延びていま、こうして淡々と生きているのだと想像すると、勝手に感慨深くなってしまうのだ。

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住まいを変えるとき

引っ越し魔で2~3年おきぐらいに住まいを変えている。

 

初めて一人暮らしをしたのは22歳の時だ。当時は東京に実家があったが、働き始めたらすぐに一人暮らしをすると決めていた。成人してからは父もあまりうるさいことを言わないようになり、両親は思ったよりあっさり許可してくれた。

初めてのマイルームは三軒茶屋の狭いワンルームマンションだった。一人で暮らすことがとにかく嬉しくて、無印で家具を揃え、IKEAの雑貨で飾りつけをした居心地の良い部屋で過ごすのがとても楽しかった。当時は仕事が終わると駅前のTSUTAYAでビデオをレンタルして洋画を2本観てから寝るのが習慣だった。壁が薄いこともあり家飲みの習慣はあまりなく、友達が遊びに来るとよく三茶や三宿に飲みに行っていた。

 

2年ほどしてセクハラが嫌で仕事を辞め、住んでいたマンションを友人にサブレットして気分転換に半年ほどカナダに行くことにした。最初の家は日本の代理店を通じて手配した若いカナダ人カップルの家でのホームステイだった。同居していた弟さんが家を出て部屋が空いたので貸し出す事にしたとのことだった。アメリカではクリスチャンがボランティアでホームステイを受け入れるのが一般的なのに対し、カナダではビジネスとしてホームステイを受け入れている家が多く、そのぶん当たり外れも多いのだが私はかなり「当たり」だったと思う。年齢も近い若夫婦とは友達のような感じで一緒にクラブに遊びに行ったり、スリランカ系二世の奥さんのご実家で美味しいスリランカ料理(チキンカレーっぽいやつ)をご馳走になったりした。

 

それでもホームステイは高くつくので、二か月後に新聞のClassifiedで見つけた「ルームメイト募集」で、ダウンタウンの便利な場所にあるマンションに引っ越した。家賃は確か月250ドル(約2万5000円)ぐらいだったと思う。ルームメイトは韓国の名門大学から留学中の女の子3人。お嬢様で控えめだけどしっかり者の美少女Aちゃん、お調子者だけど憎めないBちゃん、不器用だけど優しいCちゃん、という絶妙な組み合わせの友達3人組で、彼女たちは韓国語で話してしまうのを防ぐために外国人のルームメイトを探していたのだった。今でも3人とはFacebookで繋がっているが、みんな子どもも産んでエリート夫と幸せな家庭を築いている。特にBちゃんは容姿にコンプレックスがあるとよく話していたのだが、大学卒業後に母親のススメで美容整形(韓国らしい!)をしたとのことで、今ではすっかり美魔女になっている。

そのマンションは借りるのに保証人が要らないこともあり(そのせいで治安もあまり良くなく一度などエントランスで発砲事件があったりした)、各国から来た留学生のたまり場のようになっていた。エレベーターやランドリールームで顔を合わせるうちに同じ建物に住む留学生たちと仲良くなり、男女20人ぐらいのグループが何となく出来て、毎日のようにヒマなメンバーが誰かの部屋に集まっては持ち寄った料理とお酒を飲み食いして色々な事を話したり、クリスマスだとかハロウィンだとか誰かのお別れ会だとか何かと理由をつけて近所の安いブリティッシュパブで飲んだくれたりした。

 

ルームメイト達が帰国してしまうと、私は滞在を更に半年延長し、またClassifiedで見つけたシェアハウスに引っ越した。今度は郊外のリゾートエリアにある一軒家で、そこに住む40代ぐらいのイラストレーターの女性が、空いている部屋を数人に貸し出していた。私以外はみんなカナダ人の女性で、ヒマな時はリビングに行けば誰かしらいて、恋愛の話や仕事の話で盛り上がった。その頃、元夫と付き合い始めていた私はその相談にも乗ってもらったりしたものだ。彼がデートのために迎えに来た時など、みんながカーテンの端から覗き見して、帰宅後に「He is so cute!」などと冷やかされたりもした。

 

それからしばらくして彼にプロポーズされ、一旦帰国してマンションを引き払い、両親への挨拶などを済ませ、段ボール10箱ぐらいの荷物と共に再びカナダに行き結婚式を挙げた。

夫が一人暮らしをしていたマンション内のもっと広い部屋に越してくれたので、そこで新婚生活をスタートさせた。古い石造りのマンションだったが自由にリノベして良いというので、壁の色を塗り替えたり、備え付けの家具を取りつけたりして快適に暮らしていた。当時は専業主婦だったので、ガレージセールで安く手に入れた家具にペンキを塗って金具を替えたりとDIYにも凝っていた。マンションの2軒隣にテイクアウトも出来るイタリア系の食堂があり、そこのピーカンパイに2人でハマり、毎日のように食べていたのを覚えている。

私にとっては環境が変わった上に仕事もなく友達もほとんどいなかったので、そのストレスから夫婦喧嘩も多かったが、週末になると2人で近くの大型スーパーに買い出しに行き、飲みながらおつまみを料理して映画を観たりと、それなりに仲良く暮らしていたように思う。

 

結婚して1年ほど経った頃に夫が新築のマンションを購入した。金融街から徒歩圏内のエリアで、独身ビジネスマンやクリエイター夫婦などが住むデザイナーズマンション。天井が高く暖炉と広いルーフバルコニーもあり、私はその部屋をとても気に入っていた。

ようやく就労ビザもおりて仕事を始めた私の生活も一変した。同僚や仕事を通じて知り合った人などとの交友関係も広がり、夫への依存でなく「自分の生活」を持ち始めた私を見て、夫もホッとしたようだった。子どもがいないこと、そしてそれまでの反動もあり、お互い平日は遅くまでそれぞれの友人と出かけることが多くなった。

 

それでも3年ほどは、週末は必ず2人で過ごしていたし、平日に発散しているぶんケンカする事もほとんどなくなり、一番楽しい時期だったかもしれない。徒歩圏内に大きなマーケットやドーム型球場、レイクサイドエリアなどがあり、週末は2人であちこち出かけたりそれぞれの友人を招いてバルコニーでBBQパーティをやったり、少なくとも表面上は賑やかな結婚生活を送っていた。

 

ただ一方で、この頃から互いの自由な時間を持ちすぎたために夫婦間の距離がだんだんと広がっていたのだと思う。結婚してから5年弱の同居生活の、最後の半年ぐらいは2人ともほとんどまともに会話することがなくなっていた。朝帰りした夫の気配をベッドで感じながらも「おかえり」を言わない私、先に出勤する私の気配で目が覚めても「行ってらっしゃい」を言わない夫。夫が私に相談もなく友人と共同出資で飲食店を始めたことも夫婦間の大きなしこりになっていた。

そして私は、仕事で知り合った年下の男性に心を奪われ、夫に隠れて会うようになっていた。夫は何も言わなかったが、おそらく誰かがいる事には気づいていたと思う。夫の方も時々香水の匂いをさせて帰ってくるようになった。

ある日夫が「新規事業のためにしばらく海外に行くので、君は東京に一旦帰ったらどうか」と言ってきた。夫も私も夫婦生活に疲弊していたので、話し合いの末、結局そのままマンションもお店も売却して夫は東南アジアへ、私は東京へと引っ越すことになった。

 

私の方が先に東京へ経ったのだが、その出発日の朝の事を思い出すと今でも胸が痛くなる。夫は朝方酔って帰宅し、そのまま起きてこなかった。私はネコ2匹を入れた大きなケージとスーツケースを持って「もう行くけどそのまま起きないのね…」と怒りを滲ませたため息をついて家を出た。

たまたま止めたタクシーの運転手がネコ嫌いでブツブツ文句を言われ、空港の職員もネコアレルギーだからと言って私の荷物を扱うのを嫌がり、私は孤独と自分への憐憫の気持ちでわんわん泣き出したいような気持ちでカナダを後にした。

 

今考えると、あの朝夫がギリギリまで飲んで見送りに起きてこなかった気持ちも少し理解が出来る。私がカナダを発ったあの日から、私たち夫婦の関係は修復不可能だったという事実を、夫も薄々感づいており、それをどうにも出来ない自分をもどかしく思っていたのではないかと思う。

その後、別居したことで少しだけ関係が修復され、一年半ほどは夫が時々東京に会いに来ていたし、事業が軌道に乗ったらまた東京で一緒に住もうという話も出ていた。結局そうはならなかったのだけど、その時のいきさつはまだ上手く文章に出来そうもない。

 

振り返ってみると、私の転居歴はそのまま人生の転機とも重なっているような気がする。少なくともそれまでのライフスタイルや交友関係が引越しによって多少なりとも変わるという経験をこれまでに何度も繰り返してきた。

私にとって引越しというのは、人生でつまづいた様々な困難から逃げ出し、生活をリセットする儀式のようなものなのかもしれない。

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父と母のこと

お正月に実家へ行き、憂鬱な気持ちで帰ってきた。

5年くらい前までは、実家でお正月を過ごすことは割と楽しみな行事だったのだが、ここ数年は年老いた両親と対峙することが億劫になってしまっている。

今まで私は自分が円満な家庭に育ったと思っていた。天然で奔放なところもあるけど優しい母、厳しくて口うるさいけど威厳のある大黒柱の父、個性的で私の感性にいつも刺激を与えてくれる姉、そして「いい子」を演じる末っ子の私。

だけど父が定年退職して母の意に沿わない(何のゆかりもない)田舎町に強引に引越してから雲行きが怪しくなった。ここ10年ほどで両親の間にいくつかのまあまあ深刻なトラブルがあり、私は生まれて初めて「家族問題」というものに悩むようになった。

私が末っ子であるが故の無邪気さから気づいていなかっただけなのかもしれないけど、自分の家族はある種完璧な形を保っていると思い込んでいたので、そのショックは大きかった。そして今ではお盆やお正月に実家に帰って70代の両親がつまらない事で口論したり、くすんだ実家の様子を通して二人の”老い”を目の当たりにすることがひどく苦痛に感じられる。

 

私の父は某省庁に勤める国家公務員で、一言でいうと「昭和の男」だ。日本海に面した田舎町で古い価値観を持つ母親に育てられ、時代錯誤とも言えるほどの保守的な考えを持っている。私が小さい頃は顔も性格も父とうり二つだった事もあり、息子が欲しかった父は私を自分の分身のように見ていたのかもしれないと思う。趣味の将棋を小学生の私に仕込もうとレッスンしてくれたが、飽きっぽい私はすぐに音を上げてしまった(当時は天才女流棋士林葉直子さんの全盛期だった)。

父との楽しい思い出と言えば、毎年大晦日になると、母のおせち料理の仕込みを邪魔しないように(という名目で)姉と私を連れて映画館に「寅さん」を観に行く恒例行事があった。おかげで姉も私も「寅さん」が大好きで、今でもみんなで集まると「あのメロンのくだりが」などという話で盛り上がったりする。大学時代、体調不良で行けなくなった母の代わりに父と2人でヨーロッパ旅行に行ったこともある。父と2人きりで何日も過ごすのは初めてで緊張したが、旅先での父はいつもよりはしゃいでいるようで、ローマの食堂のパスタの美味しさに感動したり、ロンドンのコナン・ドイルゆかりのパブで気取って写真を撮ったりしたのは良い思い出だ。

とは言え、思春期以降は父の時代錯誤な物言いに辟易するようになり、また、いつも批判的な目で見られているような気がして父の前では劣等感を感じる事も多くなった。今でも父と会う時は服装など気を遣うし、面と向かって話す時は少し緊張する。

 

母は家族の中で唯一の”ボケ”担当(父も姉も私も完全にツッコミキャラ)でフワフワした人なのだが、その一方で頑固なところがある。

料理やパッチワークが好きで、友達が遊びに来ると家のインテリアや母の手作りの洋菓子を羨ましがられたりした(あくまでも昭和50年代の話)。母は大の音楽好きでもあり、学校から帰ると母がデカいPioneerのレコードプレイヤーでマイケル・ジャクソンエルヴィス・プレスリーを流しながら洗濯物を干したりしていたものだ。

母の思い出というと、とにかく料理にまつわるものが多い。小さい頃は母がキッチンに立って夕食の支度を始めると、隣に立ってその包丁さばきや鍋の中で食材が美味しい料理に変化していく様を夢中になって見学するのが私の日課だった。母はカレーライスやハンバーグやグラタンといった、子どもが好きな料理は自分があまり好きではないせいもあって(笑)あまり積極的ではなく、小さい頃から割と大人っぽいものを食べていたような気がする。そして父が残業終わりで帰宅して晩酌を始めると、自分の夜ご飯には出てこなかった「カレイの煮つけ」だとか「白子」だとか「バイ貝」だとか、いかにも美味しそうなおつまみがテーブルに並び、私は羨ましい気持ちでそれを眺めていたものだ。私が今、大のお酒好きで辛党なのはその影響もあるかもしれない。

母は少女のような気持ちを持った、良くも悪くも”自分中心”的な感覚のある人で、それは彼女が幼い頃に姉弟の中で最も父親に溺愛され、また若い頃から男性にチヤホヤされてきた事と無関係ではないと思う。

母は40代ぐらいまで割と熱心にテニスをやっていたのだが、近所のテニスクラブでいわゆるマドンナ的存在だったらしく、私も学校が休みの日に連れて行ってもらった時など、クラブハウスのレストランでエビピラフを食べながら、母が華やかな様子でテニス仲間と話すのを見て少し誇らしい気持ちになることもあった。東京で生まれ育った母は倹約家の父とは対照的で、銀座で買い物をしたり映画を観たり友達とバーへ飲みに行ったりするのが好きだった。

父は仕事で単身赴任したりと不在がちだったが、母と娘2人の3人でキャッキャ言いながら楽しい生活を送っていたように思う。

 

何だかこうして書いていると、やっぱりそれなりに幸せな家庭だったように思えてくる。もしかしたらそのことが私に「家族」というのはキラキラし続けなければならないものだという概念を植え付けたのかもしれない。そして私が年老いていく両親の姿や、色褪せていく実家の景色に必要以上に失望を感じてしまうのは、まだキラキラした家族への希望を持ち続けているからなのだろう。

でも現実では、親が老いていく姿を真正面から受け入れ続けなければならない。だから私はこれからも憂鬱な気持ちを抱えながら、毎年懲りずに実家に足を運ぶ。

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クリスマスのこと

クリスマスの思い出と言えば、小学生ぐらいから大学時代までが一番キラキラしていたように思う。

小学校時代は一年間で一番楽しみな日がクリスマスイブで、一か月くらい前から楽しみで仕方なかった。姉とクリスマスツリーの飾りつけをして、欲しいおもちゃをお願いする手紙をサンタさん宛てに書いて、イブは一番お気に入りの服を着て家で母と姉と一緒にグリルチキンとケーキとシャンメリーでお祝い。クリスマス当日の朝は早くプレゼントが見たくていつもより早起きしたものだ。

父は仕事で留守がちだったので家族パーティには参加しなかったが、日本語をローマ字で書いた”サンタからの手紙”をくれたりして、父なりに愛情を注いでくれていたように思う。

中学に入ってお菓子作りが趣味になった私はクリスマスケーキ作り担当になった(甘いものが苦手な完全辛党になった今では信じられないけど)。当時桑田さんとかさんまさんが色んなアーティストを集めてコラボソングを歌うクリスマス番組があって、姉と私はそれを毎年ものすごく楽しみにしていた。中2のころだったか、メイクとか仮装に興味を持ちだした私はジュリー的なメイクをして男装をし、おめかしした姉と一緒にクリスマス写真を撮ったりもした。学校行事以外でクリスマスに友達とパーティをしたり出かけたりした記憶はあまりなく、私にとってクリスマスはあくまでも家の行事だった。

大学時代はバブル時代の名残がまだ少しだけあったせいか、クリスマスは彼とイタリアンで食事してドライブし、夜景の見えるホテルに泊まる、みたいな過ごし方をする人も多く、出不精であまのじゃくな私ですらそんなような事をした年もあった。

 

私が今までに過ごしたクリスマスで一番思い出深いのが20歳のクリスマスイブだ。

当時、ホテルで行われるパーティなんかでお酒や食事を配るコンパニオンのバイトをしていた私は、当然クリスマスイブもどこかの会社の20周年記念パーティに駆り出されており、クリスマスらしい予定を何も入れていなかった。夜10時過ぎに横浜のホテルを出て、このまま帰るのは寂しすぎる!と思った私は、同じサークルの同期で気になっていたA君に思い切って電話してみることにした。A君はハーフっぽい綺麗な顔立ちをした長身リア充風お坊ちゃんで後輩女子からも人気があり、イブ当日にヒマなどという事はないだろうなと思ったが、私は彼の”そこはかとなく漂うオタク臭”に一縷の望みを抱いていた。

何度もためらいながらようやく電話してみると、彼は奇跡的に自宅で大学の男友達と試験勉強中だった(さすが理系)。それまでサークルのイベントでしか顔を合わせた事がなかった私が”イブの夜”なんていう重めのタイミングでいきなり電話しても大丈夫か心配だったが、彼は軽い感じで「じゃあ駅前のドーナツ屋で会おうよ」と言ってくれた。

ドキドキしながらドーナツショップで待ち合わせし、コーラを飲みながら今日のバイトの話なんかをしていると彼は「ホントは家で一緒にクリスマスパーティやりたいんだけどB(男友達)に会わせたくないんだよなぁ」と言った。私はB君がいようがいまいが、このままバイバイするよりはA君の家に行って一緒にイブを過ごしたいと思ったので、「いいじゃん、3人で楽しくパーティやろうよ」と言ってA君の家に押しかけた。

コンビニでお酒やおつまみやケーキを買いこんで3人でワイワイ過ごしていると、A君の心配した通り、酔ったB君が軽いノリで口説いてきた。私は曖昧な返事を続けていたが、時間が経つにつれてB君を止めないA君の方にちょっとした怒りが湧いてきた。そしてB君が隣に来て肩に手を回してきてもそのままにしていた。

だんだん気まずい雰囲気になり、B君がトイレから戻ってきたタイミングでようやくA君が口を開いた。「ちょっとしおさんと2人にさせてもらっていい?」B君はちょっと不満げだったがA君が真顔なのを見ると「じゃあちょっと横になるわ」と言って寝室に入っていった。

私はリビングのテーブルを挟んでA君の向かい側に改めて座り直した。しばらくの沈黙の後、A君は今日私から連絡があってすごく嬉しかった事、ひょっとしたら私も自分の事好きなのかなと期待したけど今日の態度を見ていると単に遊び友達を探しているだけなのかと感じた事などを冷静に語り始めた。

私は内心、彼も自分に好意を抱いてくれている事を知って有頂天になったが、表面上は神妙な面持ちで謝罪し、素直にA君のことが気になっていると伝えた。するとA君はようやく笑顔になり、テーブル越しに私の手をギュッと握って「良かった。じゃあ付き合おう」と言った。その日はソファで2人で抱き合って寝た。ドキドキして全然眠れなかったけど。

 

A君とはその後半年ほどで割とあっさり別れてしまったのだけど、この夜の出来事はなぜか今でも、その一連の会話だとか彼の誠実な眼差しだとか自宅のソファの感触までが臨場感を伴って思い出される。それはこの日が、当時の私が特別に感じていた”クリスマスイブ”という日だった事と無関係ではないかもしれない。

クリスマスイブにぬくもりだとか煌びやかさを感じなくなってからもう何年も経つけれど、私が今でもこの出来事をときどき懐かしく思いだし反芻してしまうのは、失われてしまった自分の純粋な恋心だとかクリスマスを心待ちにする無邪気さに対する未練なのかもしれない。

おわり

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