【番外編】BTS沼にハマったコロナ禍の40代独身のはなし

2021年2月某日、私の生活に劇的な変化が訪れた。私はこの日を境に自分の人生をBB(Before Bantan)とAB(After Bantan)に分類したい。(ACのAはAfterじゃなくてannoだよということは一旦置いといて、それくらい変化をもたらしたということだ。)

 

事の始まりは一本のYouTube動画だった。その日は月に一度の心療内科へ行く日だった。私は20年以上前にパニック発作を発症してから、オンオフあるもののずっと心療内科にお世話になっている。

かかりつけの先生に「調子はどう?」と訊かれ、「毎日の生活で楽しいことが何もないです。もっと活動的にならなきゃ、何か始めなきゃと思うのですが、とっかかりがなくて。毎日おつまみを作って晩酌することだけが楽しみです」と答えていた。これはその頃の偽りのない私の切実な思いだった。

 

自粛生活の約一年間、仕事も完全リモートで恋人もなく独り暮らしの私は、SNS上を除いてほとんど人と交流することのない生活を送っており、とにかく孤独で時間を持て余していた。元々出不精でひとり行動が好きなことも手伝って、コロナ禍になってからは一週間店員さん以外とひと言も口をきかないことなどざらで、家から一歩も出ない日も増えていた。

人間関係で心が躍るような出来事もないし、仕事も40代後半に入って行き詰まりを感じていた。オシャレをして美味しいものを食べに行く楽しみも叶わない。自分の人生のピークはもう過ぎてしまったのだというどんよりした思いを抱えながら、ただただ日々を消化していくような生活を送っていた。

 

「あれこれ考える前にとにかく動いてみるのもいいと思いますよ」という医師の言葉を反芻しながらも特に何か始めるでもなく、私はいつものように自宅での仕事を終え、スパークリングの栓を開け、何度も見たテレビ番組の録画を眺めながら呑んでいた。

これほど無為な時間の過ごし方はないなと自嘲しながらふと、K-POP好きの姉に「何かオススメの動画あったら送って。ダンスがカッコいいやつとか」とLINEしてみることにした。K-POPは全く詳しくないが、以前KARAのダンス映像にハマったことがあるのを思い出して、最近またそういうカッコいいダンス映像があれば見てみたいなと思ったのだった。

 

姉が送ってくれた様々な男女K-POPアーティストの動画10本ほどの中にそれはあった。

“Boy with Luv”(BTS V Fan Cam)というタイトルのその動画は、2019年のMCountdownという番組でBTSがヒット曲“Boy With Luv”のパフォーマンスを見せた時のもので、メンバーのひとりであるV(テヒョン)を追った映像だった。

https://youtu.be/AX0CIHA2f1M

 

BTSが人気なのも、すごいイケメンがいるのも何となく知ってるけど誰が誰か見分けがつかない」レベルだった私は、その時BTSのパフォーマンスを初めてフルで見た。「え、この人(テヒョン)のダンスと表情ヤバくない?!」それが私の最初の感想だった。そしてまた見たくなって何度も繰り返し再生する。他にも“V Fan Cam”などで検索して他の動画を見てみるが、結局この動画に戻ってくる。

 

後に色々知ってから改めて思うのだが、この動画は魅惑的に表情をくるくると変えながらこなれた動きでファンを惹きつけるテヒョンの魅力を全部詰め込んだような映像なのである(個人的感想)。あまたあるBTSのパフォーマンス映像の中からこれを選んで送ってくれた姉は私の好みを熟知していると言わざるを得ないし、もう本当に感謝しかない。

後に全メンバーの大ファンになる私だが、もし最初に見たのがこの映像でなければハマっていなかったかもしれないなと思う。

 

とにかくこの動画の虜になった私はヒマさえあればYouTubeを開いてテヒョンの魅力あふれるパフォーマンスを楽しむようになった。そうして数日が経った頃、何となくBTSの基本的な情報を知りたくなり、ネットで各メンバーの名前や特徴、プロフィールを調べてみることにした。

すると、端正な顔立ちからクールな印象だったテヒョンが不思議ちゃんで人懐っこいと言われていることや、私が知った時には既にトップアイドルだったBTSが下積み時代にとても苦労していることなど、意外な情報がたくさん出てきて、今度はヒマさえあればBTSの過去のエピソードなどを検索するようになった。

そして調べていくうちに彼らの情報の膨大さ、それらの情報を発信している"ARMY"と呼ばれるファンの人たちの熱量の大きさを体感し、「何だかとてつもないものに足を踏み入れてしまったのではないか」と思うようになった。

 

BTSというグループは、ネット上で無料で視聴できる(公式)コンテンツやファンたちによる情報のまとめだけでもありとあらゆる楽しみ方が出来るので、人によってどこから入ったかが千差万別なのが特徴なのだが、私の場合は「テヒョンの神動画」から「BTSの過去エピソード収集」に移行した後、約3か月間にわたり(内容が濃すぎてまだ3か月とは信じられない)以下のような経緯を辿って現在に至る。

本当はそれぞれの時期についても色々書きたいことはあるけど、とてつもなく長くなってしまうのでなるべくシンプルにまとめてみた。

 

BTSのMVやダンス練習動画を一日中リピート→ジョングクのパワフルなダンスとイケメンさが好き過ぎて辛い→ファンクラブ入会(高校時代の岡村靖幸以来、人生で2度目)&VLIVEとWeverseをダウンロード→RUN BTS!で各メンバーのキャラや魅力がわかってくる(ていうかこの人たちバラエティもこんなに面白いの?!とびっくりする)→Memoriesシリーズのライブ・密着映像でBTSが人気アイドルから世界的なスターになっていく過程を時系列で追うにつれBTSの全体像が掴めてくる→ライブと密着映像でジミンちゃんのとんでもない魅力に気づく→目覚めるとベッドの中でYouTube、仕事中もテレビでMVを流しっぱなし、夜はネットで情報検索と、24時間BTS漬けの生活→毎朝起きてBTSの事ばかり考えるのがツラいくらいハマる→新大久保に行って韓国食材を買ったりネットでメンバー着用と同じ服を買ったりし始める→Bon VoyageやIn the Soopなどの旅番組で人間力の高いヒョンラインの魅力に気付いてしまう(個人的感想)→繰り返しRUN BTSを見ているうちにソクジン、ユンギ、テヒョンの笑いのセンスにハマる→ユンギのラップとツンデレの虜になりユンギペン寄りオルペンで落ち着く→ようやくハマリ過ぎてツラい時期から少し落ち着き正常な日々を送れるようになる。ネットで調べまくって、現在視聴できる彼らのあらゆる映像コンテンツを片っ端から見つつ、お気に入りの映像を繰り返し見る日々(イマココ)

 

もちろんこの間ずっと彼らの楽曲はベースとしてずっと楽しんでいて、ビジュアルとダンスのカッコよさから入った私も、本格的に聴きこんでいるうちにBTSの楽曲の素晴らしさにどんどんのめり込んでいった。

よく話題になるのはBTSの歌詞に込められたメッセージだと思うけど、思春期から遠ざかっている年齢もあるのか、私がよりハマったのは曲である(どっちもいいんだけど)。昔からポップス、ロック、パンクを中心に色んな音楽を聴いてきたけど、BTSの楽曲は初期のヒップホップ色が強めのものからコミックソング、バラード、最近のポップな曲まで、本当に多様でいい曲が多い。

BTSといえばメンバーが直接作詞作曲に深く関わっているのは有名だけど、あんなに凄いパフォーマンスをする人たちが、楽曲としてもこんなに完成度の高いものをコンスタントに創り出していること自体が本当に凄いと思う。

 

つい語りたくなってしまい何度も横道にそれたけどとにかくこうしてBTSとの出会いによって、わずか3か月の間に私の生活は激変した。

大人になってからほとんど運動をしていなかった私が、突き動かされるようにジョギングを始め、食事にも気を遣うようになった。一年近く誰とも会わず家にこもって2-3日シャワーを浴びなくても服を着替えなくても平気なぐらいになっていたが(大人の女性とは思えないw)、毎日朝早く起きてシャワーを浴び、着替え、軽くメイクもして、天気が良ければ散歩程度でも積極的に外に出るようになった。

なかなか明けないコロナ自粛生活の中で、ようやくコロナ前の自分の生活ペースを少しずつ取り戻すきっかけを得たような感じだ。運動するようになってからメンタルの調子も良くなり、引き続き心療内科には通っているが、調子の悪い日が格段に減った。

 

それがどうBTSと関係があるのか?と疑問に思う人もいるかもしれない。私自身も上手く説明できないのだけど、彼らの素晴らしいパフォーマンスとその裏にあるとてつもない努力、そしてインタビューやドキュメンタリー映像から伝わってくる彼らの誠実さや生きる姿勢(これについてはまた別に書いてみたいが、本当に深い発言が多くて気づかされることが多い)を見ているうちに、「私ももう少しマシな人間になりたい」という欲望が湧いてきたのだ。

これは「運動して綺麗になってBTSメンバーみたいな素敵な人と出会いたい!」とかそういう事では"全くない"。何と言うか、何か行動を起こす原動力を得たというか、そういう感じだ。

 

今までアイドルファンになったことがないのでよく解らないのだけど、もし人をインスパイアする事がアイドルの存在意義のひとつだとしたら、BTSはそういう意味では紛れもなく「アイドル」だと思う。

 

もちろん私の生活の変化など本当に些末なものだけど、それでも私にとってこの一年間踏み出せなかった第一歩を踏み出せたことは大きい。ジムに入会しても数回で退会していた私が、まだわずか3か月だけど週5で運動をし続けられている(恥ずかしながら三日坊主じゃないのは人生で初めて)のも、何がどうなのかわからないけど、BTSの存在にヤル気を貰っている気がするのだ。

 

自粛生活でみんなが何か癒しや刺激を求めている中、私のような新規ARMYが急増していると聞く。

きっとみんなアプローチやツボる部分が違うだろうけど、同じような思いでBTSを見て何かを感じ、刺激を受け、会ったこともない彼らの幸せを心から願う人たちが地球上にたくさんいると思うと、コロナ禍以降、社会と隔絶されてきたという感覚も少しだけ緩和され、自分の世界がワントーン明るくなった気がするのだ。

 

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コロナとMidlife Crisisのこと

ここ2年くらい、うっすらと無気力な状態が続いている。

20代から30代は結婚と離婚を経験し、離婚後は仕事中心にがむしゃらに生きてきた感じがあって「ちょっと疲れたのかな」くらいに思っていたのだけど、しばらくして「ああこれがいわゆるMidlife Crisis(中年期の心の葛藤)なんだな」と思うようになった。

 

仕事に関しては、クライアントに年下が増えたことでお互いやりづらい場面が増えたり、よく一緒に仕事をしていた人たちが第一線から退いたりで、今まで楽しくやりがいを持って取り組んでいた仕事があまり楽しくなくなってしまった。会社に残っていれば今ごろ管理職としてチームで仕事が出来ていたのに、などと独立して以来初めて後悔というか迷いが生じたりもした。

日本で定年まで勤めあげられる女性はまだ少数派だと思うのだけど、自分にそれが出来るか自信がない。かと言って家庭を築いているわけではないし、この先どうやって生きていくのかの見通しがつかない。

 

そんなタイミングでコロナ禍が訪れた。元々仕事でもプライベートでも人との関わりが少ない生活を送っていたので、世間で言われているよりはだいぶ生活の変化は少なかったように思う。それでも社会から隔絶された毎日にふと不安になることも増え、こんな風にして生きている意味があるのかと本気で疑問に思ったりもした。

ずっと低空飛行してきた私の生活は、この世界的危機の下で更にいろどりのないものになり、とにかく目の前の一週間が早く過ぎてくれればいいという気持ちで時間を消費するようになった。

旅をしたり友人と食事したりすることが出来なくなり、好きでひとり時間を過ごすのではなくひとり時間を強いられる日々。スケジュール帳を見ても楽しみな予定がひとつもない。時間は膨大にあるのに本や映画や音楽を楽しむ心の余裕がない。

 

そしてもうひとつ不安なのが、みんなが口にする「コロナが収まったら...」に続く言葉が私には思いつかないことだ。もちろん自由で平穏な世の中を望んではいるけど、また社会が正常に活発に動き出した時、自分はそのスピードにまたついていくことが出来るのか、目標や意欲を取り戻すことが出来るのか、不安に駆られる事がある。

 

コロナ禍が去ったところで、もう自分の人生のピークが過ぎてしまった事に変わりはない。ふとそんな風に悲観的になってしまうのだ。

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「おうち時間」のこと

もともと出不精で用事がない限り一日中家にいることがほとんどなので、コロナ後のライフスタイルという面で言うとかなり変化は少ない方だと思う。会社員時代と違って、独立してからは打ち合わせや会議以外はほとんど在宅で仕事が出来るようになっていたのも大きい。

手洗いとかソーシャルディスタンスとか、未来に対する不安という点ではもちろん大きな変化を感じているけど、日々の生活だけを取ってみるとほとんど無理なく過ごすことができている。それは今の状況下では恵まれていることなのだろうし、自粛中も通勤したり人と接しなければならない人たちに迷惑をかけないためにも普段以上に外に出ないようにして過ごしている。

 

コロナの影響で仕事がいくつかキャンセルになり、対面での打ち合わせや会議もなくなって数か月が経つ。友人と食事に行く代わりにZoom呑みを覚え、ネットで買い物や宅配を頼みドア前に置き配してもらう。美容院やマッサージなどの自分メンテは誰とも会わない生活の中では必要がなくなった。

お子さんがいるご家庭の大変さは別格として、普段アクティブな人たちにとってStay Homeというのはひどく苦痛なことのようで、メディアやSNSでも連日「いかに退屈しないでおうち時間を過ごすか」のアイデアが紹介されている。それらを見ていると、コロナ前も後も変わらず「おうち時間」を淡々と過ごしている自分の孤独なライフスタイルが浮き彫りにされてくるような気がしてふいに焦燥感にかられる時がある。

 

毎朝起きてメイクもおしゃれもせずオンライン上で仕事を済ませ、近所のスーパーで買ってきた食材でおつまみを作ってテレビや映画を見たりネコ達と遊びながら呑んで、眠くなったらラジオを聴きながら寝る。楽しみにしているビッグイベントもなければ、お互い声を掛け合うような親友や存在を思うだけでホッとするようなパートナーもいない。コロナ前から仕事上も転機を感じて受け身で仕事をしているため、緊張して眠れないようなチャレンジングな仕事も抱えていない。

コロナを機に刻々と変わっていく世の中の動きがきっかけで今の自分の状況を変えられるのではないかという希望は、いつの間にか「変えなければいけないのにそれが出来ていない」ことへの焦りに変わっていく。自分の将来についていつも以上に考えているのに、答えからはますます遠ざかっていく。

 

コロナのことは心配だし悲しい出来事や嫌な出来事も見聞きした。早く収束してのびのびと生活出来る世の中に戻って欲しいと切に願う。

ただ、それとは全く別のところで、世の中が通常に戻った時にもう無邪気に「おうち時間」を楽しめなくなっている自分が、これから一体どんな希望を持って生きていけるのか、つい不安に思ってしまうのだ。

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色んな美味しい料理のこと

  仕事のスランプを迎えていて色々思うところを吐き出そうと書き始めたのだけど、世の中がこんな風に薄暗いご時世だから、何か楽しいことについて書くことにした。

 

 

 昨日、Twitterハッシュタグで「#いいねの数だけ好きなモノを暴露する」というのがあって、自分の好きなものは何だろうと思いを巡らせていたら、食べ物ばかり思い浮かぶことに気付いた。私は毎食「できるだけ美味しいものを食べたい!」と常に思っている食いしん坊だ。食べるだけでなく、料理風景を見てその食材の変化に注目したり「どんな味かな?」と想像したりするのがとても好きなので、料理番組や食べ歩き番組はもちろん、料理がテーマの小説やドラマを好んで手に取ることが多い。料理の腕前は中途半端だけど(笑)作るのも好きだし、都内の美味しいお店は結構詳しい方だと思う。旅をする時もその土地の美味しいものと美味しいお店をまず詳しく調べる。

 

 私がこんな風に食いしん坊になったひとつの理由は、小さい頃から母が家であれこれ作ってくれたことが大きいと思う。時々このブログにも書いているが、酒呑みの父の好みに合わせた大人っぽい料理が食卓に並ぶことも多かったし、友達が来たら(当時にしては)ハイカラなおやつを作ってくれたりして、私は母が料理をする姿も作る料理も大好きだった。だから大人になってから母が「実はレパートリーはそんなになかったし、ひき肉とカレーとホワイトソースがあまり好きじゃないから定番料理はあまり作らなかった」と告白してきた時はびっくりした。でも確かに今思い返してみると、ハンバーグやミートソース、グラタン、カレーなどの子どもが大好きな料理の登場回数は極端に少なかったかもしれない。これらは食卓に並ばずとも本能的に(?)好きだから今では自由に食べているけど。

 

 母の手料理で特に好きなのは、甘辛いお揚げとたっぷり具材の五目いなり、鶏手羽のから揚げとなすピーマンの素揚げをニンニクしょうが醤油で和えたもの、子持ちガレイの煮つけ、にんじんとごぼうを太めの拍子木切りにして唐辛子と砂糖をガツンと効かせたきんぴらごぼう、夏場はほぼ毎日副菜として食卓に上がるなすのしょうが焼きなどだ。これらは帰省する時に母から「リクエストある?」と言われて姉か私が必ずリクエストするメニューでもあるが、最近では70半ばになった母の味付けが昔よりぼんやりしてしまっている事に寂しさを感じることも多い。江戸っ子の母が作る“おふくろの味”は全体的にしょうゆ、みりん、砂糖を使った濃い目の味だったが、今は父の血圧を気にして薄味にしているせいもあるかもしれない。

 

 大人になってカナダに住み始めると、スーパーのラインナップをとても新鮮に感じ、スーパーに行く度にテンションが上がっていた。食パンと言えば小ぶりの正方形が定番だったり、鶏肉がバーベキュー用の巨大サイズで売っていたり、サラダ野菜コーナーはカット野菜がむき出しで並べられていて常に自動で霧吹きされていたり(今でこそどれもコストコとか成城石井とかで一般的になっているけど)、当時の私にとってはその食材の売り方ひとつもやたら興味深かった。トロント最大の生鮮市場の近くに住んでいたので週末は市場へ行って新鮮なロブスターや魚、バケツ売りで500円ぐらいのムール貝などをよく買って料理した(これらのダイナミックな料理は主に元夫が担当)。

 

 そのトロントは世界有数の多民族都市なので、外食のレパートリーも本当に豊かだった。中華街はもちろん、ギリシャ、イタリア、ベトナム、韓国それぞれの移民がつくった街が中心部から地下鉄で10分20分のところにあって、その日の気分であらゆる国の料理を食べに行くことが出来た。それらの街にあるお店はその国出身の移民がやっている事が多く、かなりオーセンティックでレベルの高いお店が多かった。中華やイタリアンは日本でもよく食べていたが、本格的なギリシャ料理ベトナム料理の美味しさはトロント時代に覚えたのだと思う。また韓国系の友人が多かったので韓国の家庭料理の作り方も一通り教えてもらったりして、私の食生活の幅は一気に広がった。

  日本の食材は韓国人街にあるスーパーに行けば手に入った。西海岸と違って日本人人口も少ないし食材の流通も少なかったが定期的に食べたくなるので、かなり割高な白米、納豆(冷凍)、しょうゆ、海苔、薄切り肉(カナダのスーパーで肉を薄切りで売っていることはほぼない)などを買って常備していた。一度どうしてもみょうがが食べたくなって探したら、日本語のローカル紙に「みょうがを育てています」という日本人の方がいて、連絡して分けてもらったこともある。

 帰国後のひとり暮らしでは専らおつまみを専門に作っている。料理番組や本や酒場で食べた料理を参考に、適当にアレンジして自分好みのものを作り晩酌するのが日々の楽しみだ。最近よく作るのはキャベツ千切りと豆苗粗みじんにひき肉をピリ辛に炒めて乗せたものや、芽キャベツを焦げ目がつくまで素揚げして塩を大胆に振ったものなど。食べたい野菜と鶏手羽をぶち込んでポン酢で食べるお鍋もしょっちゅうやる。ひとり分を作るのはコスパが悪いので、2人ぶんくらいを作って残りは卵でとじたりしてご飯や麺と組み合わせて翌日の朝食やランチにするのがルーティーンだ。大抵の残りものは卵でとじれば美味しい。「残りものの卵とじランチ」みたいな料理本を出したいくらいだ。

 

  こんな感じで食事というものは私の日々の生活の中で大きなウエイトを占める。だから食べ物にあまり興味がない人や無頓着な人とは何となく価値観が合わないなと思うし、食べ物を粗末にしたりマナーが悪い人にはあまり良くない印象を抱いてしまう。

 そして中年(初老?)になった今、日々温かくて美味しいものを食べられることの贅沢さをかみしめるようになったし、だからこそ美味しいものを美味しいと感じられる心身の健康を保つことが人生を豊かにするための大切な事のひとつだと思うのだ。f:id:shiofukin:20200312232131j:image

心の病のこと

911アメリ同時多発テロが起きた事は、私の人生に思いもよらぬ影響をもたらした。

とは言っても私は当時カナダに住んでいて、直接巻き込まれた訳ではなく、あくまで安全なところから怖がっていたというだけの話なので他人からしたら何をオーバーな、という感じだと思う。

 

2001年、27歳の私は結婚3年目の夫と2匹の猫と、古いアパートメントを自分たちでリノベした居心地の良い部屋に住んでいた。こちらに越して来てからしばらく続けていた在宅の仕事も辞め、専業主婦としてヒマを持て余していた私は、一人で買い物をしたり、家でクッキングチャンネルをひたすら見たり、数人いる主婦友達と時々外食したりして、自由だけど刺激のない日々を過ごしていた。よくある話だが世間から取り残された焦燥感からストレスが溜まり、夫とよくケンカをするようになっていた。

 

9月11日は夫を仕事に送りだした後、友達とカフェでお茶をしながらとりとめのない話をしていたと思う。朝のニュースでNYの航空事故のことは知っていたけど、その時点では当然カナダに住む自分の生活への影響などは全く考えていなかった。

ところが午後になって「どうやら事故ではなく大規模テロの可能性がある」という話を耳にした私たちは、とりあえず帰宅した方が良さそうだという事で、予定していた買い物をやめて地下鉄でそれぞれ帰宅した。それからテレビのニュースに釘づけになり、このテロ事件の深刻さがみるみる増していく様をリアルタイムで見ていた。

しばらくするとカナダの都市部も狙われる可能性があるということ、また地理的にテロ犯の逃亡先になる可能性があるということで空港、地下鉄駅、主な観光スポットが全面封鎖された。

 

夕方には夫も職場から早めに帰宅し、「怖いね」なんて言いながら簡単な夕食を食べていた。

テレビ画面に大きく映し出されたツインタワーと、そこに飛行機が飛び込んでいく様を何度も繰り返し見ているうちに、私は急にご飯を飲みこむ事が出来なくなり、息苦しく、血の気が引いて冷や汗がどっと噴き出てくるのを感じた。「体調が悪いから横になる」と言って私は早々にベッドに入った。なかなか動悸と冷や汗はおさまらなかった。

 

翌朝夫を見送った後、家で独りでいるのが心細く不安になり、とにかく誰かにすがりたいような衝動に駆られて、部屋着にサンダルを引っかけて徒歩5分ほどの場所にあるクリニックに駆け込んだ。

そもそも自分が病気なのか? この何とも言えない感情をどうやって医者に説明したらいいのか? 不安はあったがとりあえず昨夜からのザワザワする気持ちを出来る限り説明した。話しながら涙が出て止まらなかった。すると若い男性医師は「昨日のショッキングな事件のせいで、心を痛めている人がたくさんいます」と穏やかに言って、薬を処方してくれた。私が陥ったのは「Anxiety Attack(不安発作)」とのことだった。

 

私はこの正体不明の精神状態には病名があること、先生にそれを理解してもらえたこと、他にも同じような症状の人がいる事を知り心底ホッとした。対処療法と治療薬の両方出してくれていたので、その日から幸い不安感はだいぶおさまった。後になって考えると911の事件はあくまでも症状のトリガーになっただけで、当時の結婚生活で抱えていた様々な問題が根本の原因だったのだと思う。

しばらくして症状は治まったが、数年後に夫と別居し離婚問題に直面する頃に再発し悪化していった。その頃は何を食べても味がせずボソボソに感じるだけで食事ものどを通らず、あっという間に7キロほど痩せた。そして会う人ごとに「痩せた?」と言われるのがひどく苦痛になり、そう言われる度に「自分はこのままどうにかなってしまうのではないか」という不安に駆られるようになった。別居が決まりひとりで帰国した時はあまりに痩せていたので父にひどく心配された。母は心の病に理解のある人だったので相談していたが、父はそういうのを「気の持ちよう」と言うタイプの人なので言わなかった。

 

離婚成立後はだいぶ安定し、体重も戻り(というかもはや増え)日常生活には全く支障がないような状況だが、今でも心療内科のお世話になっている。時期によって薬を減らしたりということはあるものの、仕事やプライベートで大きな悩みやプレッシャーを感じた時などに発作を起こすことが年に数回ほどあり、もう一生付き合っていくものなんだろうなと開き直っている。きっかけは911の事件だったけど、その後離婚問題などを経てそのまま持病として定着していったという感覚がある。それは元夫とのいざこざのせいだけではなく、私自身の心の弱さや完璧主義的な考え方、生来の悲観的な性格などによる部分も大きいのだと思う。

 

持病があるなどと友人に話すと気を遣わせてしまいそうだから自分からはあまり言わないようにしているが、私自身は自分がずっと心療内科のお世話になっている事自体には何の抵抗もなく、話の流れによっては割とおおっぴらに話している。特に最近は世間の理解もあるし、周りにも何らかの問題を抱えている人は少なくない。親しい友人や会社の後輩などが意を決して「最近どうも気持ちが落ち込む」とか「何に対してもやる気が起きない」などの相談をしてきた時は、「わかる、私も実はこういう経験があって・・・」という話をすると、それだけでホッとしてもらえることも多い。もちろん私は専門家でも何でもないから、そこから治療を受けるかどうかはそれぞれの状況や意志によるものだけど、私自身がそうであったように、この何となくのモヤモヤには名前があって同じような感覚を経験した人が身近にもいると知るだけで少しは気が楽になるのではないかと思う。

 

四十も半ばに差し掛かり、これからますます将来への不安、健康面の問題に直面していくことを考えると、生きていくこと自体がとても難儀なものに思えることがある。子どもの頃思い描いていた未来と比べて今の自分がひどく色褪せて感じられることもあれば、日々の小さな愉しみに幸せな気持ちになることもある。こうして一喜一憂を繰り返しながら目の前の日常をこなしていくうちに人生が進んでいくというのは案外幸せなことなのだろうけど、まだこの先に自分の人生が大きな輝きを放つチャンスがいくつか残されていることをつい願ってしまう。

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独身でいること

 もう何年も恋愛をしていない。40も半ばに差し掛かると、大人らしく「恋愛というより安心感のあるパートナー的な関係性」という方が主流なのかもしれないけど、私の恋愛観が幼稚なせいか、後にパートナーになる相手だとしてもやっぱり初めはときめいたりしたいと思ってしまう。

 30代後半ぐらいに、知人たちに独身男性を紹介してもらってデートしてみた時期があった。「こんないい人がよく独身でいたな」と思うほど素敵な人もいた。でも初めから「この人と恋愛できるかな、一緒に暮らせるかな」と考え過ぎてついつい減点法で相手を見てしまい結局誰とも続かなかった。この時期に、昔ちょっとだけ付き合っていた男友達に何年ぶりかに呼びだされ「海外赴任についてきて欲しい」とプロポーズされたこともあったが、交際4か月で国際結婚した挙句離婚した経験のある私には、突然のプロポーズに身をゆだねるほどの勇気も体力ももう無かった。

 そんなことがあってから、一応ひと通りの事はやるだけやったという気持ちも手伝って積極的に再婚相手を探すことをすっぱりやめた。当たり前の事だけど、40過ぎて受け身で過ごしている女にそうそう出会いなんかやってこない。いつもの酒場の常連客と仲良くなったり、仕事で知り合った男性と何となく数回ご飯なんか食べに行ってフェードアウトしたり、元彼と久々に会ってみたりの繰り返しで、いわゆる大人の女性がすべきまともな(安定した)恋愛とは無縁な生活を送っている。

 20代の自分が一体どんな40代の恋愛事情を想像していたかはよく覚えていないけど、今のようなものではなかったことだけは確かだ。20代の私はきっと、40代なんてもう恋愛からはとっくに卒業して、夫と老後の計画を立てているだろうくらいに思っていたのだろう。そして実際の私は、夫とではないけれど、ひとりで老後をどうやって過ごそうかという方向に思考がシフトしてきている。仕事が大変だったり身内の悩み事があったりプライベートが寂しすぎたりして、やっぱり支え合うパートナーがいたらいいのにと思う事も少なくないけど、まだギリギリ独り身の気楽さと自由さがそれを上回っている。また、最低限の幸せな結婚生活というものを一度は手に入れかけて失敗した自分が、今後またそれを手にすることが出来るとは到底思えないというのもある。

 あくまでも私の肌感覚なのだが、ここ数年で人の生き方に対する世間の許容範囲がぐんと広がったのを感じる。手垢のついた言い方かもしれないけど、大企業に就職して安定しろとか、30過ぎて独身はおかしいとか、結婚してるのに子どもを産まないのかとか、同性愛は認めないとか、そういう事を声高に言う人たちが「前時代的」とされるようになり、そこに当てはまらない生き方をする事が(少なくとも都市部では)以前ほど息苦しくなくなってきているという実感がある。少子高齢化もあり、好むと好まざるとに関わらず、親世代と比べて独りで老後を迎える人たちも格段に増えて社会の受け皿も変化していくだろうし、健康とお金さえ大切にしていれば”自分だけがものすごく孤独”という事態は避けられるのではないかと少し楽観視もしていたりする。(その健康とお金の維持が一番難しいんだけど。)

 そうやってこのまま独身でいる事に対して自分なりに折り合いをつけて日々過ごしているのだけど、人ごみの中で同年代の夫婦やカップルとすれ違うたびに「どうして自分には大多数の人たちが当たり前に出来ている事が出来ないんだろう」というコンプレックスのようなものをうっすらと感じてしまうのだけは、どうしても止められないのだ。

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ハワイの空港にて

ホノルルの空港のスポーツバーで、キンキンに冷えたビールを飲みながらこれを書いている。

5日間の休みが取れるかどうかギリギリまでわからなかったけど、何となく目星をつけていた出発日の2日前に「どうやらこのままいけば休めそうだ」と確信し、慌ててエアーとホテルを予約した。直前の予約にしては安い航空券があり、更には前に泊まってとても快適だったホテルが、今は訳アリなせいか結構なディスカウント価格で出ていた。その訳アリとは現大統領のホテルで、ちょうどニュースで炎上していたこともあってか(いつもだけど)当然アメリカ人宿泊客はほとんどいなくてアジア人ばかりだった。タクシーの運転手さんにも「トランプホテルなんか泊まるの(笑)?!」と揶揄されたし、もちろん私も彼のことは嫌いだけど、それとお得な料金とはまた別の話だ。(実際部屋もサービスもとても良い)

 

ハワイは4度目くらいだが、今回の旅はとりわけ穏やかに過ごした。

初めてハワイに行ったのは学生の頃だ。母方の親戚一同で祖母も連れてハワイに行こうという事になった。母(当時50歳前後)がワイキキの海で溺れそうになって現地のライフガードに助けられたり、いとこのお兄ちゃんが飲み過ぎてホテルの部屋でぶっ倒れたり、私がバドガールみたいなセクシー服を着て行ったために空港で厳しく荷物検査を受けたり(まあそれが原因てわけでもないんだろうけど)と、今考えるととんだ珍道中だったと笑ってしまう。

まだ海外旅行というものに大きなトキメキを感じていた頃で、空港に到着した時にワクワクしたのを覚えているし、パラセーリングを楽しんだり、姉といとこと水着で浮かれた写真を撮ったり、朝ABCストアでオレンジジュースとサラダを買ってハワイの生暖かい風に吹かれながら食べるだけでも感動できた。写真を見返すまでもなく、どこに行って何に感動してどんな会話をしたか、今でも記憶に残っている。

 

それが今回の旅では、自分でもびっくりするほど感情の波が“凪”状態だった。仕事も含め海外経験が格段に増えたこともあり、まずトラブルが何も起きない。旅慣れて用意周到になり、物事にも動じなくなると、旅先でも淡々と時が過ぎていく。「非日常感」というのは休暇に旅をする上でとても大切な要素だと思うのだがそれを感じる神経がマヒしてしまっているようだ。

年を重ねるにつれて感受性が鈍くなる、という話は前にもしたと思うけど、特に35を超えた辺りから昔と比べて新しい本や映画や音楽に触れても心を動かされることが少なくなったという実感がある。

と、ここまで書いて帰国したところに、Twitterのタイムラインに「ほとんどの人は30歳になるまでに新しい音楽を探さなくなる(出典amass.jp)」という記事が流れてきた。記事によると、“人は年を取るにつれて…(中略)昔の曲やジャンルを何度も繰り返し聴く「音楽的無気力」とも言える現象が起き”るのだそうだ。

 

それで言うと、今の私は音楽だけでなく本や映画に対しても無気力期を迎えているし、恋愛に関しても同じだ。10代から30代前半までは常に胸が苦しくなるほど好きな人がいて「私、一生こんなにキュンキュンし続けたら身体がもたない」と不安に思うくらいの恋愛体質だったが、ここ7~8年ぐらいは胸が苦しくなるほど好きになった人など一人もいない。時々、「もうこのまま誰かを狂おしいほど好きになったり、他人をどうしようもなく愛おしく想うことなく一生を終えていくのかな」とふと寂しい気持ちになる。

 

40過ぎにもなってティーンエイジャーみたいな繊細な感性を持っていたら生きづらくてしょうがないと思うけど、見聞きするもの全てに心が動かされたあの頃を懐かしく思い出してしまう。歳を重ね、人生経験を積んで、人間として熟成していくのは決して悪くない。ただ、時々自分の経験則を取っ払ってもっと無邪気に物事を楽しむことができたら、年々色褪せつつある日常の風景も少し彩を取り戻すのではないかと思うのだ。

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「親友」のこと

友達がたくさんいた方が楽しい、などという考えは元々持っていないけど、最近は数少ない友人とすら定期的に連絡を取るのが億劫になりつつある。15年来の仲で1~2か月に一度は食事をしながら近況報告をするのが当たり前になっていた女友達にも、私から連絡すると言ったまま4か月ほど連絡をしていない。彼女も私に何らかの心境の変化があったのだとおそらく察していて、そこの説明をしなければならない事を考えると連絡を取るのが更に億劫になってしまう。

 

 少なくとも表面的には社交的なタイプで、男女問わず気になる人がいると「どんな人なのかもっと知りたい」という気持ちが湧いてくるので、仕事などで知り合った人を私から食事に誘ってみたりすることは割と多い。そこから意気投合して時々飲みに行ったり、何かイベント事があると声を掛け合ったりする仲になったりもするが、人間関係に対してマメな方ではないので、一定期間を過ぎるとだんだんと受け身になっていき、そのうち疎遠になってしまう。そういう“知人”はたくさんいて、むしろそのくらいの距離感の人とは「ふと思いだして連絡してみたんだけど今日空いてないよね…?」みたいな事で久々に誘ったり誘われたりしてまた関係がアップデートされると、こういう関係もいいなと心地よく感じたりする。

 

 “知人”のパターンとしてもう一つよくあるのが、酒場での知り合いだ。私は引っ越しをする度に近所の良い酒場を異常な嗅覚で見つけ出し、そこへ夜な夜な独りで呑みに行くというのを趣味にしているのだけど、そこで知り合った人たちと店外で会うことはほぼない。

 

  それは私にとって酒場というのが「自分の行きたいときに行って帰りたい時に帰ることができる」便利な社交場であり、その場にいる登場人物と他の場所で会ってしまうと、この特別な空間における人間関係のバランスみたいなものが崩れてしまうように感じるからだ。こう言うと非常に利己的に聞こえるかもしれないけど(実際まあそうなのだけど)、酒場での人間関係は酒場で完結させておいた方が色々と物事がスムーズにいくし、気に行ったお店に通い続けるためにもそれが賢明な選択なのだと、独り呑み歴13年の経験から感じている。

 

  という訳で、常に近所には「顔見知りのスタッフがいつ行ってもそこそこ歓迎してくれ、愚痴とか最近あったどうでもいい出来事を半分聞き流しながら聞いてくれて、たまたま隣に座った見知らぬ客と『さっぽろ一番の味噌、塩、しょうゆの中で一番美味しいのはどれか?』について延々とやり合う」ことの出来る酒場が2~3軒あって、その存在は私の生活に欠かせないものになっている。

 

  そんな“都合の良い酒場”の存在も後押ししてか、最近一部の友人との人間関係が煩わしく、連絡があっても返事をしない事が多いし、何となく腐れ縁的に続いていた男友達とも会うのを止めたし、SNSで時々連絡が来る幼少期や学生時代の集まりにも顔を出さなくなった。ふと「私は無意識に身辺整理をしているのではないか」と不安になったりもするが、何となくそういう時期なのだと自分に言い聞かせている。

 

  私のような人間にとって、「親友」とか「友情」という言葉は危険な言葉だ。小学生の頃にクラスメイトに無視された時も、中学時代に仲良し3人組のバランスが崩れた時も、高校時代に好きな男子の相談をしていた友達が彼と付き合い始めた時も、“親友とは常に清廉で、相手の事を思いやるべき存在”という概念に苦しめられた気がする。特に思春期の女子は「私たち親友だよね」などという事を言いたがるものだし、大人になってからも「幼少期からの親友」というものを必要以上に崇高に考える人は(私を含め)多いと思う。

 

  だけど大人になり、人生の転機を何度か迎え、「ライフスタイルや環境が変わりお互いの価値観や考え方も変化していくにつれて、親友が親友でなくなっていくのは当然の流れだ」と考えるようになった。それに伴い、「親友」という言葉自体もあまり使わなくなった。

 

  今の私には、とにかく人として好きで一緒に居て落ち着く友人や、仕事や物事に対する価値観を共有できる楽しい友人が数人いる。彼らとずっと友達でいたいという気持ちはもちろんあるけど、時の流れと共に通り過ぎていく人もいるだろう。

  友達というものはお互いの人生の中で自然淘汰されていく側面もあって、それは必ずしもネガティブな事ではないような気がする。そしてだからこそ、そんな流動的な人間関係の中でいま自分の周りにいる好きな人たちと出会い、友達になることが出来たのは、奇跡であり必然なのだと思うのだ。

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知らない大人のこと

小学校4年生くらいの頃に、知らない人の家を訪ねるのがマイブームだったことがある。

今考えるとものすごく危険だし迷惑な行為なのだが、毎日近所の女の子たちと自転車で公園に行ったり縄跳びをしたりシロツメクサで王冠を作ったりすることに飽きてきた私は、大人の友達が欲しいと思うようになった。(お子さんがいらっしゃる方にとってはヒヤヒヤする話で申し訳ないです。今より少しのんびりした世の中だった頃の話です)

 

当時、都内の住宅街に住んでいた私は、近所の商店街に囲まれたエリアを歩きまわり、住人が庭に出ていると話し掛けてみる、というのを繰り返していた。同級生の家や子どもがいる家は避け、優しそうな人を選んで「何してるの?」と柵越しに声を掛けてみる。すると大抵の人は「庭の草をむしってるんだよ」とか「猫に餌をあげてるんだよ」とか返事をくれ、ヒマを持て余したおばちゃんが家に招き入れておやつを出してくれることもちょくちょくあった。それはそれで楽しかったが、当時の私にとって、おやつを食べる姿をニコニコ見ながら「学校は楽しい?」とか質問されるのは何だか子ども扱いされているようで少しくすぐったかったし、かと言って息子のグチを延々と聞かされるのもいまいちピンとこなかった(実際そういうおばあちゃんもいた 笑)。

私が求めていたのは、普段家でも学校でも接することのない二十歳前後の「お姉さん」や「お兄さん」との出会いだったのだと思う。でもそうした人たちはたぶん大学生や社会人をやっていて、平日の昼間に家でヒマそうにしているのを見かけることはほとんどなかった。

そんな中、今でも印象に残っている“大人”が2人だけいる。

 

1人は整骨院の裏の茶色い家に住むお姉さんだ。その家は周辺の家に比べて大きく、横に幅広い形をしたロッジ風で、私は通るたびに気になっていた。そこの娘だという短大生のお姉さんとどうやって知り合ったのかはよく覚えていないが。初対面で家に上がらせてもらった後もちょくちょく訪ねて行った記憶がある。

ひんやりした薄暗い廊下と急な階段、小さい木のベッドがあるお姉さんの部屋。そのお姉さんは遊びに行く度にガラスの小物入れだとかレモンの香りのコロンの小瓶だとか、ちょっとした物をポンポンくれるのだが、当時の私にとってそれらは宝物のように感じられ、「大人の女の人ってスゴイなぁ」と憧れの気持ちを抱いていた。

半年ほど経つと、訪ねていっても留守な事が多くなった。たまたまヒマな時期だったのが終わったのか、子どもと遊ぶのに飽きたのかはわからないが、私も次第にお姉さんの家には行かなくなった。

 

もう1人は公園の近くの古いアパートに住むお兄さんだ。真夏の暑い日、公園からの帰り道にふと見ると、アパートの1階の窓が全開になっており中には黒いTシャツ姿でうちわをパタパタする男の人がいた。男性の年齢や職業なんて10歳の私には知る由もないが、記憶の中のイメージを辿ると平日休みの仕事をしている20代半ばくらいの営業マン、という雰囲気だったように思う。窓越しに「何してるの?」「暑いからゴロゴロしてるんだよ」みたいな会話の後、私はお兄さんの部屋の万年床に座り砂糖入りの麦茶を飲みながら、彼がカセットテープをひとつずつ見せて知らない歌手の話をしているのを聞いていた。

今の感覚なら、20代の独り暮らしの男性が知らない小学生の女の子を部屋に入れるのは「アウト」だと感じるのだが、当時の私の判断力がそこまでではなかったのか、時代なのか、それとも幼いながらに「このお兄さんは大丈夫」と感じたのかわからないが、その後もお兄さんのお休みの曜日を狙って何度か部屋に遊びに行った。

お兄さんは特別子ども好きという感じでもなく、いつも私との歳の差なんか意に介さない様子で自分の好きな音楽(確か佐野元春尾崎豊かなんかのファンだったと思う)や好きな食べ物といったとりとめのない話をしてくれて、兄のいない私はいつも新鮮な気持ちで話を聞いていた。

何度めかにお兄さんの部屋に遊びに行った時、いつもの砂糖入り麦茶を出された私は、だいぶお兄さんと仲良くなっていたことも手伝い、からかうような口調で「何で麦茶にお砂糖なんか入れるの?美味しくないよ~」と言った。するとお兄さんは「何だと~?」とふざけて私のお腹をくすぐってきた。その瞬間、私の中でお兄さんに対する得体のしれない不安感や嫌悪感が一気に膨れ上がった。

 

確信を持って言えるが、彼の中にいかがわしい気持ちは一ミリもなかったと思う。むしろ彼にとってそのしぐさは、普段接し慣れない小学生の子どもに対して初めて見せた、「子ども相手らしい」しぐさだったはずだ。でもそれまで私を“傍観者”かのように無機質に接してきたお兄さんが、初めて私を“女子小学生”と認識して接してきた事で、私の中で彼の存在が生々しいものに感じられてしまったのではないかと思う。(もちろんこれは30年以上経っての何となくの分析だけど。)

私はぎこちなく麦茶を飲み干すと「もう帰らなきゃ」と言ってアパートを出た。息を切らして家まで一気に走ると、その後お兄さんの部屋には二度と行かなかった。

 

昔の断片的な記憶がよみがえってくる度に、本当に色々な出来事があったなぁと思うのだが、特に小学生から中学生にかけての自分の行動は危なっかしくてしかたがない。よくもまあ奇跡的に大人になれたと思う。そして道行く大人たちがみんなそうした危なっかしい時期を生き延びていま、こうして淡々と生きているのだと想像すると、勝手に感慨深くなってしまうのだ。

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住まいを変えるとき

引っ越し魔で2~3年おきぐらいに住まいを変えている。

 

初めて一人暮らしをしたのは22歳の時だ。当時は東京に実家があったが、働き始めたらすぐに一人暮らしをすると決めていた。成人してからは父もあまりうるさいことを言わないようになり、両親は思ったよりあっさり許可してくれた。

初めてのマイルームは三軒茶屋の狭いワンルームマンションだった。一人で暮らすことがとにかく嬉しくて、無印で家具を揃え、IKEAの雑貨で飾りつけをした居心地の良い部屋で過ごすのがとても楽しかった。当時は仕事が終わると駅前のTSUTAYAでビデオをレンタルして洋画を2本観てから寝るのが習慣だった。壁が薄いこともあり家飲みの習慣はあまりなく、友達が遊びに来るとよく三茶や三宿に飲みに行っていた。

 

2年ほどしてセクハラが嫌で仕事を辞め、住んでいたマンションを友人にサブレットして気分転換に半年ほどカナダに行くことにした。最初の家は日本の代理店を通じて手配した若いカナダ人カップルの家でのホームステイだった。同居していた弟さんが家を出て部屋が空いたので貸し出す事にしたとのことだった。アメリカではクリスチャンがボランティアでホームステイを受け入れるのが一般的なのに対し、カナダではビジネスとしてホームステイを受け入れている家が多く、そのぶん当たり外れも多いのだが私はかなり「当たり」だったと思う。年齢も近い若夫婦とは友達のような感じで一緒にクラブに遊びに行ったり、スリランカ系二世の奥さんのご実家で美味しいスリランカ料理(チキンカレーっぽいやつ)をご馳走になったりした。

 

それでもホームステイは高くつくので、二か月後に新聞のClassifiedで見つけた「ルームメイト募集」で、ダウンタウンの便利な場所にあるマンションに引っ越した。家賃は確か月250ドル(約2万5000円)ぐらいだったと思う。ルームメイトは韓国の名門大学から留学中の女の子3人。お嬢様で控えめだけどしっかり者の美少女Aちゃん、お調子者だけど憎めないBちゃん、不器用だけど優しいCちゃん、という絶妙な組み合わせの友達3人組で、彼女たちは韓国語で話してしまうのを防ぐために外国人のルームメイトを探していたのだった。今でも3人とはFacebookで繋がっているが、みんな子どもも産んでエリート夫と幸せな家庭を築いている。特にBちゃんは容姿にコンプレックスがあるとよく話していたのだが、大学卒業後に母親のススメで美容整形(韓国らしい!)をしたとのことで、今ではすっかり美魔女になっている。

そのマンションは借りるのに保証人が要らないこともあり(そのせいで治安もあまり良くなく一度などエントランスで発砲事件があったりした)、各国から来た留学生のたまり場のようになっていた。エレベーターやランドリールームで顔を合わせるうちに同じ建物に住む留学生たちと仲良くなり、男女20人ぐらいのグループが何となく出来て、毎日のようにヒマなメンバーが誰かの部屋に集まっては持ち寄った料理とお酒を飲み食いして色々な事を話したり、クリスマスだとかハロウィンだとか誰かのお別れ会だとか何かと理由をつけて近所の安いブリティッシュパブで飲んだくれたりした。

 

ルームメイト達が帰国してしまうと、私は滞在を更に半年延長し、またClassifiedで見つけたシェアハウスに引っ越した。今度は郊外のリゾートエリアにある一軒家で、そこに住む40代ぐらいのイラストレーターの女性が、空いている部屋を数人に貸し出していた。私以外はみんなカナダ人の女性で、ヒマな時はリビングに行けば誰かしらいて、恋愛の話や仕事の話で盛り上がった。その頃、元夫と付き合い始めていた私はその相談にも乗ってもらったりしたものだ。彼がデートのために迎えに来た時など、みんながカーテンの端から覗き見して、帰宅後に「He is so cute!」などと冷やかされたりもした。

 

それからしばらくして彼にプロポーズされ、一旦帰国してマンションを引き払い、両親への挨拶などを済ませ、段ボール10箱ぐらいの荷物と共に再びカナダに行き結婚式を挙げた。

夫が一人暮らしをしていたマンション内のもっと広い部屋に越してくれたので、そこで新婚生活をスタートさせた。古い石造りのマンションだったが自由にリノベして良いというので、壁の色を塗り替えたり、備え付けの家具を取りつけたりして快適に暮らしていた。当時は専業主婦だったので、ガレージセールで安く手に入れた家具にペンキを塗って金具を替えたりとDIYにも凝っていた。マンションの2軒隣にテイクアウトも出来るイタリア系の食堂があり、そこのピーカンパイに2人でハマり、毎日のように食べていたのを覚えている。

私にとっては環境が変わった上に仕事もなく友達もほとんどいなかったので、そのストレスから夫婦喧嘩も多かったが、週末になると2人で近くの大型スーパーに買い出しに行き、飲みながらおつまみを料理して映画を観たりと、それなりに仲良く暮らしていたように思う。

 

結婚して1年ほど経った頃に夫が新築のマンションを購入した。金融街から徒歩圏内のエリアで、独身ビジネスマンやクリエイター夫婦などが住むデザイナーズマンション。天井が高く暖炉と広いルーフバルコニーもあり、私はその部屋をとても気に入っていた。

ようやく就労ビザもおりて仕事を始めた私の生活も一変した。同僚や仕事を通じて知り合った人などとの交友関係も広がり、夫への依存でなく「自分の生活」を持ち始めた私を見て、夫もホッとしたようだった。子どもがいないこと、そしてそれまでの反動もあり、お互い平日は遅くまでそれぞれの友人と出かけることが多くなった。

 

それでも3年ほどは、週末は必ず2人で過ごしていたし、平日に発散しているぶんケンカする事もほとんどなくなり、一番楽しい時期だったかもしれない。徒歩圏内に大きなマーケットやドーム型球場、レイクサイドエリアなどがあり、週末は2人であちこち出かけたりそれぞれの友人を招いてバルコニーでBBQパーティをやったり、少なくとも表面上は賑やかな結婚生活を送っていた。

 

ただ一方で、この頃から互いの自由な時間を持ちすぎたために夫婦間の距離がだんだんと広がっていたのだと思う。結婚してから5年弱の同居生活の、最後の半年ぐらいは2人ともほとんどまともに会話することがなくなっていた。朝帰りした夫の気配をベッドで感じながらも「おかえり」を言わない私、先に出勤する私の気配で目が覚めても「行ってらっしゃい」を言わない夫。夫が私に相談もなく友人と共同出資で飲食店を始めたことも夫婦間の大きなしこりになっていた。

そして私は、仕事で知り合った年下の男性に心を奪われ、夫に隠れて会うようになっていた。夫は何も言わなかったが、おそらく誰かがいる事には気づいていたと思う。夫の方も時々香水の匂いをさせて帰ってくるようになった。

ある日夫が「新規事業のためにしばらく海外に行くので、君は東京に一旦帰ったらどうか」と言ってきた。夫も私も夫婦生活に疲弊していたので、話し合いの末、結局そのままマンションもお店も売却して夫は東南アジアへ、私は東京へと引っ越すことになった。

 

私の方が先に東京へ経ったのだが、その出発日の朝の事を思い出すと今でも胸が痛くなる。夫は朝方酔って帰宅し、そのまま起きてこなかった。私はネコ2匹を入れた大きなケージとスーツケースを持って「もう行くけどそのまま起きないのね…」と怒りを滲ませたため息をついて家を出た。

たまたま止めたタクシーの運転手がネコ嫌いでブツブツ文句を言われ、空港の職員もネコアレルギーだからと言って私の荷物を扱うのを嫌がり、私は孤独と自分への憐憫の気持ちでわんわん泣き出したいような気持ちでカナダを後にした。

 

今考えると、あの朝夫がギリギリまで飲んで見送りに起きてこなかった気持ちも少し理解が出来る。私がカナダを発ったあの日から、私たち夫婦の関係は修復不可能だったという事実を、夫も薄々感づいており、それをどうにも出来ない自分をもどかしく思っていたのではないかと思う。

その後、別居したことで少しだけ関係が修復され、一年半ほどは夫が時々東京に会いに来ていたし、事業が軌道に乗ったらまた東京で一緒に住もうという話も出ていた。結局そうはならなかったのだけど、その時のいきさつはまだ上手く文章に出来そうもない。

 

振り返ってみると、私の転居歴はそのまま人生の転機とも重なっているような気がする。少なくともそれまでのライフスタイルや交友関係が引越しによって多少なりとも変わるという経験をこれまでに何度も繰り返してきた。

私にとって引越しというのは、人生でつまづいた様々な困難から逃げ出し、生活をリセットする儀式のようなものなのかもしれない。

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