住まいを変えるとき

引っ越し魔で2~3年おきぐらいに住まいを変えている。

 

初めて一人暮らしをしたのは22歳の時だ。当時は東京に実家があったが、働き始めたらすぐに一人暮らしをすると決めていた。成人してからは父もあまりうるさいことを言わないようになり、両親は思ったよりあっさり許可してくれた。

初めてのマイルームは三軒茶屋の狭いワンルームマンションだった。一人で暮らすことがとにかく嬉しくて、無印で家具を揃え、IKEAの雑貨で飾りつけをした居心地の良い部屋で過ごすのがとても楽しかった。当時は仕事が終わると駅前のTSUTAYAでビデオをレンタルして洋画を2本観てから寝るのが習慣だった。壁が薄いこともあり家飲みの習慣はあまりなく、友達が遊びに来るとよく三茶や三宿に飲みに行っていた。

 

2年ほどしてセクハラが嫌で仕事を辞め、住んでいたマンションを友人にサブレットして気分転換に半年ほどカナダに行くことにした。最初の家は日本の代理店を通じて手配した若いカナダ人カップルの家でのホームステイだった。同居していた弟さんが家を出て部屋が空いたので貸し出す事にしたとのことだった。アメリカではクリスチャンがボランティアでホームステイを受け入れるのが一般的なのに対し、カナダではビジネスとしてホームステイを受け入れている家が多く、そのぶん当たり外れも多いのだが私はかなり「当たり」だったと思う。年齢も近い若夫婦とは友達のような感じで一緒にクラブに遊びに行ったり、スリランカ系二世の奥さんのご実家で美味しいスリランカ料理(チキンカレーっぽいやつ)をご馳走になったりした。

 

それでもホームステイは高くつくので、二か月後に新聞のClassifiedで見つけた「ルームメイト募集」で、ダウンタウンの便利な場所にあるマンションに引っ越した。家賃は確か月250ドル(約2万5000円)ぐらいだったと思う。ルームメイトは韓国の名門大学から留学中の女の子3人。お嬢様で控えめだけどしっかり者の美少女Aちゃん、お調子者だけど憎めないBちゃん、不器用だけど優しいCちゃん、という絶妙な組み合わせの友達3人組で、彼女たちは韓国語で話してしまうのを防ぐために外国人のルームメイトを探していたのだった。今でも3人とはFacebookで繋がっているが、みんな子どもも産んでエリート夫と幸せな家庭を築いている。特にBちゃんは容姿にコンプレックスがあるとよく話していたのだが、大学卒業後に母親のススメで美容整形(韓国らしい!)をしたとのことで、今ではすっかり美魔女になっている。

そのマンションは借りるのに保証人が要らないこともあり(そのせいで治安もあまり良くなく一度などエントランスで発砲事件があったりした)、各国から来た留学生のたまり場のようになっていた。エレベーターやランドリールームで顔を合わせるうちに同じ建物に住む留学生たちと仲良くなり、男女20人ぐらいのグループが何となく出来て、毎日のようにヒマなメンバーが誰かの部屋に集まっては持ち寄った料理とお酒を飲み食いして色々な事を話したり、クリスマスだとかハロウィンだとか誰かのお別れ会だとか何かと理由をつけて近所の安いブリティッシュパブで飲んだくれたりした。

 

ルームメイト達が帰国してしまうと、私は滞在を更に半年延長し、またClassifiedで見つけたシェアハウスに引っ越した。今度は郊外のリゾートエリアにある一軒家で、そこに住む40代ぐらいのイラストレーターの女性が、空いている部屋を数人に貸し出していた。私以外はみんなカナダ人の女性で、ヒマな時はリビングに行けば誰かしらいて、恋愛の話や仕事の話で盛り上がった。その頃、元夫と付き合い始めていた私はその相談にも乗ってもらったりしたものだ。彼がデートのために迎えに来た時など、みんながカーテンの端から覗き見して、帰宅後に「He is so cute!」などと冷やかされたりもした。

 

それからしばらくして彼にプロポーズされ、一旦帰国してマンションを引き払い、両親への挨拶などを済ませ、段ボール10箱ぐらいの荷物と共に再びカナダに行き結婚式を挙げた。

夫が一人暮らしをしていたマンション内のもっと広い部屋に越してくれたので、そこで新婚生活をスタートさせた。古い石造りのマンションだったが自由にリノベして良いというので、壁の色を塗り替えたり、備え付けの家具を取りつけたりして快適に暮らしていた。当時は専業主婦だったので、ガレージセールで安く手に入れた家具にペンキを塗って金具を替えたりとDIYにも凝っていた。マンションの2軒隣にテイクアウトも出来るイタリア系の食堂があり、そこのピーカンパイに2人でハマり、毎日のように食べていたのを覚えている。

私にとっては環境が変わった上に仕事もなく友達もほとんどいなかったので、そのストレスから夫婦喧嘩も多かったが、週末になると2人で近くの大型スーパーに買い出しに行き、飲みながらおつまみを料理して映画を観たりと、それなりに仲良く暮らしていたように思う。

 

結婚して1年ほど経った頃に夫が新築のマンションを購入した。金融街から徒歩圏内のエリアで、独身ビジネスマンやクリエイター夫婦などが住むデザイナーズマンション。天井が高く暖炉と広いルーフバルコニーもあり、私はその部屋をとても気に入っていた。

ようやく就労ビザもおりて仕事を始めた私の生活も一変した。同僚や仕事を通じて知り合った人などとの交友関係も広がり、夫への依存でなく「自分の生活」を持ち始めた私を見て、夫もホッとしたようだった。子どもがいないこと、そしてそれまでの反動もあり、お互い平日は遅くまでそれぞれの友人と出かけることが多くなった。

 

それでも3年ほどは、週末は必ず2人で過ごしていたし、平日に発散しているぶんケンカする事もほとんどなくなり、一番楽しい時期だったかもしれない。徒歩圏内に大きなマーケットやドーム型球場、レイクサイドエリアなどがあり、週末は2人であちこち出かけたりそれぞれの友人を招いてバルコニーでBBQパーティをやったり、少なくとも表面上は賑やかな結婚生活を送っていた。

 

ただ一方で、この頃から互いの自由な時間を持ちすぎたために夫婦間の距離がだんだんと広がっていたのだと思う。結婚してから5年弱の同居生活の、最後の半年ぐらいは2人ともほとんどまともに会話することがなくなっていた。朝帰りした夫の気配をベッドで感じながらも「おかえり」を言わない私、先に出勤する私の気配で目が覚めても「行ってらっしゃい」を言わない夫。夫が私に相談もなく友人と共同出資で飲食店を始めたことも夫婦間の大きなしこりになっていた。

そして私は、仕事で知り合った年下の男性に心を奪われ、夫に隠れて会うようになっていた。夫は何も言わなかったが、おそらく誰かがいる事には気づいていたと思う。夫の方も時々香水の匂いをさせて帰ってくるようになった。

ある日夫が「新規事業のためにしばらく海外に行くので、君は東京に一旦帰ったらどうか」と言ってきた。夫も私も夫婦生活に疲弊していたので、話し合いの末、結局そのままマンションもお店も売却して夫は東南アジアへ、私は東京へと引っ越すことになった。

 

私の方が先に東京へ経ったのだが、その出発日の朝の事を思い出すと今でも胸が痛くなる。夫は朝方酔って帰宅し、そのまま起きてこなかった。私はネコ2匹を入れた大きなケージとスーツケースを持って「もう行くけどそのまま起きないのね…」と怒りを滲ませたため息をついて家を出た。

たまたま止めたタクシーの運転手がネコ嫌いでブツブツ文句を言われ、空港の職員もネコアレルギーだからと言って私の荷物を扱うのを嫌がり、私は孤独と自分への憐憫の気持ちでわんわん泣き出したいような気持ちでカナダを後にした。

 

今考えると、あの朝夫がギリギリまで飲んで見送りに起きてこなかった気持ちも少し理解が出来る。私がカナダを発ったあの日から、私たち夫婦の関係は修復不可能だったという事実を、夫も薄々感づいており、それをどうにも出来ない自分をもどかしく思っていたのではないかと思う。

その後、別居したことで少しだけ関係が修復され、一年半ほどは夫が時々東京に会いに来ていたし、事業が軌道に乗ったらまた東京で一緒に住もうという話も出ていた。結局そうはならなかったのだけど、その時のいきさつはまだ上手く文章に出来そうもない。

 

振り返ってみると、私の転居歴はそのまま人生の転機とも重なっているような気がする。少なくともそれまでのライフスタイルや交友関係が引越しによって多少なりとも変わるという経験をこれまでに何度も繰り返してきた。

私にとって引越しというのは、人生でつまづいた様々な困難から逃げ出し、生活をリセットする儀式のようなものなのかもしれない。

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