知らない大人のこと

小学校4年生くらいの頃に、知らない人の家を訪ねるのがマイブームだったことがある。

今考えるとものすごく危険だし迷惑な行為なのだが、毎日近所の女の子たちと自転車で公園に行ったり縄跳びをしたりシロツメクサで王冠を作ったりすることに飽きてきた私は、大人の友達が欲しいと思うようになった。(お子さんがいらっしゃる方にとってはヒヤヒヤする話で申し訳ないです。今より少しのんびりした世の中だった頃の話です)

 

当時、都内の住宅街に住んでいた私は、近所の商店街に囲まれたエリアを歩きまわり、住人が庭に出ていると話し掛けてみる、というのを繰り返していた。同級生の家や子どもがいる家は避け、優しそうな人を選んで「何してるの?」と柵越しに声を掛けてみる。すると大抵の人は「庭の草をむしってるんだよ」とか「猫に餌をあげてるんだよ」とか返事をくれ、ヒマを持て余したおばちゃんが家に招き入れておやつを出してくれることもちょくちょくあった。それはそれで楽しかったが、当時の私にとって、おやつを食べる姿をニコニコ見ながら「学校は楽しい?」とか質問されるのは何だか子ども扱いされているようで少しくすぐったかったし、かと言って息子のグチを延々と聞かされるのもいまいちピンとこなかった(実際そういうおばあちゃんもいた 笑)。

私が求めていたのは、普段家でも学校でも接することのない二十歳前後の「お姉さん」や「お兄さん」との出会いだったのだと思う。でもそうした人たちはたぶん大学生や社会人をやっていて、平日の昼間に家でヒマそうにしているのを見かけることはほとんどなかった。

そんな中、今でも印象に残っている“大人”が2人だけいる。

 

1人は整骨院の裏の茶色い家に住むお姉さんだ。その家は周辺の家に比べて大きく、横に幅広い形をしたロッジ風で、私は通るたびに気になっていた。そこの娘だという短大生のお姉さんとどうやって知り合ったのかはよく覚えていないが。初対面で家に上がらせてもらった後もちょくちょく訪ねて行った記憶がある。

ひんやりした薄暗い廊下と急な階段、小さい木のベッドがあるお姉さんの部屋。そのお姉さんは遊びに行く度にガラスの小物入れだとかレモンの香りのコロンの小瓶だとか、ちょっとした物をポンポンくれるのだが、当時の私にとってそれらは宝物のように感じられ、「大人の女の人ってスゴイなぁ」と憧れの気持ちを抱いていた。

半年ほど経つと、訪ねていっても留守な事が多くなった。たまたまヒマな時期だったのが終わったのか、子どもと遊ぶのに飽きたのかはわからないが、私も次第にお姉さんの家には行かなくなった。

 

もう1人は公園の近くの古いアパートに住むお兄さんだ。真夏の暑い日、公園からの帰り道にふと見ると、アパートの1階の窓が全開になっており中には黒いTシャツ姿でうちわをパタパタする男の人がいた。男性の年齢や職業なんて10歳の私には知る由もないが、記憶の中のイメージを辿ると平日休みの仕事をしている20代半ばくらいの営業マン、という雰囲気だったように思う。窓越しに「何してるの?」「暑いからゴロゴロしてるんだよ」みたいな会話の後、私はお兄さんの部屋の万年床に座り砂糖入りの麦茶を飲みながら、彼がカセットテープをひとつずつ見せて知らない歌手の話をしているのを聞いていた。

今の感覚なら、20代の独り暮らしの男性が知らない小学生の女の子を部屋に入れるのは「アウト」だと感じるのだが、当時の私の判断力がそこまでではなかったのか、時代なのか、それとも幼いながらに「このお兄さんは大丈夫」と感じたのかわからないが、その後もお兄さんのお休みの曜日を狙って何度か部屋に遊びに行った。

お兄さんは特別子ども好きという感じでもなく、いつも私との歳の差なんか意に介さない様子で自分の好きな音楽(確か佐野元春尾崎豊かなんかのファンだったと思う)や好きな食べ物といったとりとめのない話をしてくれて、兄のいない私はいつも新鮮な気持ちで話を聞いていた。

何度めかにお兄さんの部屋に遊びに行った時、いつもの砂糖入り麦茶を出された私は、だいぶお兄さんと仲良くなっていたことも手伝い、からかうような口調で「何で麦茶にお砂糖なんか入れるの?美味しくないよ~」と言った。するとお兄さんは「何だと~?」とふざけて私のお腹をくすぐってきた。その瞬間、私の中でお兄さんに対する得体のしれない不安感や嫌悪感が一気に膨れ上がった。

 

確信を持って言えるが、彼の中にいかがわしい気持ちは一ミリもなかったと思う。むしろ彼にとってそのしぐさは、普段接し慣れない小学生の子どもに対して初めて見せた、「子ども相手らしい」しぐさだったはずだ。でもそれまで私を“傍観者”かのように無機質に接してきたお兄さんが、初めて私を“女子小学生”と認識して接してきた事で、私の中で彼の存在が生々しいものに感じられてしまったのではないかと思う。(もちろんこれは30年以上経っての何となくの分析だけど。)

私はぎこちなく麦茶を飲み干すと「もう帰らなきゃ」と言ってアパートを出た。息を切らして家まで一気に走ると、その後お兄さんの部屋には二度と行かなかった。

 

昔の断片的な記憶がよみがえってくる度に、本当に色々な出来事があったなぁと思うのだが、特に小学生から中学生にかけての自分の行動は危なっかしくてしかたがない。よくもまあ奇跡的に大人になれたと思う。そして道行く大人たちがみんなそうした危なっかしい時期を生き延びていま、こうして淡々と生きているのだと想像すると、勝手に感慨深くなってしまうのだ。

f:id:shiofukin:20180315193752j:plain

住まいを変えるとき

引っ越し魔で2~3年おきぐらいに住まいを変えている。

 

初めて一人暮らしをしたのは22歳の時だ。当時は東京に実家があったが、働き始めたらすぐに一人暮らしをすると決めていた。成人してからは父もあまりうるさいことを言わないようになり、両親は思ったよりあっさり許可してくれた。

初めてのマイルームは三軒茶屋の狭いワンルームマンションだった。一人で暮らすことがとにかく嬉しくて、無印で家具を揃え、IKEAの雑貨で飾りつけをした居心地の良い部屋で過ごすのがとても楽しかった。当時は仕事が終わると駅前のTSUTAYAでビデオをレンタルして洋画を2本観てから寝るのが習慣だった。壁が薄いこともあり家飲みの習慣はあまりなく、友達が遊びに来るとよく三茶や三宿に飲みに行っていた。

 

2年ほどしてセクハラが嫌で仕事を辞め、住んでいたマンションを友人にサブレットして気分転換に半年ほどカナダに行くことにした。最初の家は日本の代理店を通じて手配した若いカナダ人カップルの家でのホームステイだった。同居していた弟さんが家を出て部屋が空いたので貸し出す事にしたとのことだった。アメリカではクリスチャンがボランティアでホームステイを受け入れるのが一般的なのに対し、カナダではビジネスとしてホームステイを受け入れている家が多く、そのぶん当たり外れも多いのだが私はかなり「当たり」だったと思う。年齢も近い若夫婦とは友達のような感じで一緒にクラブに遊びに行ったり、スリランカ系二世の奥さんのご実家で美味しいスリランカ料理(チキンカレーっぽいやつ)をご馳走になったりした。

 

それでもホームステイは高くつくので、二か月後に新聞のClassifiedで見つけた「ルームメイト募集」で、ダウンタウンの便利な場所にあるマンションに引っ越した。家賃は確か月250ドル(約2万5000円)ぐらいだったと思う。ルームメイトは韓国の名門大学から留学中の女の子3人。お嬢様で控えめだけどしっかり者の美少女Aちゃん、お調子者だけど憎めないBちゃん、不器用だけど優しいCちゃん、という絶妙な組み合わせの友達3人組で、彼女たちは韓国語で話してしまうのを防ぐために外国人のルームメイトを探していたのだった。今でも3人とはFacebookで繋がっているが、みんな子どもも産んでエリート夫と幸せな家庭を築いている。特にBちゃんは容姿にコンプレックスがあるとよく話していたのだが、大学卒業後に母親のススメで美容整形(韓国らしい!)をしたとのことで、今ではすっかり美魔女になっている。

そのマンションは借りるのに保証人が要らないこともあり(そのせいで治安もあまり良くなく一度などエントランスで発砲事件があったりした)、各国から来た留学生のたまり場のようになっていた。エレベーターやランドリールームで顔を合わせるうちに同じ建物に住む留学生たちと仲良くなり、男女20人ぐらいのグループが何となく出来て、毎日のようにヒマなメンバーが誰かの部屋に集まっては持ち寄った料理とお酒を飲み食いして色々な事を話したり、クリスマスだとかハロウィンだとか誰かのお別れ会だとか何かと理由をつけて近所の安いブリティッシュパブで飲んだくれたりした。

 

ルームメイト達が帰国してしまうと、私は滞在を更に半年延長し、またClassifiedで見つけたシェアハウスに引っ越した。今度は郊外のリゾートエリアにある一軒家で、そこに住む40代ぐらいのイラストレーターの女性が、空いている部屋を数人に貸し出していた。私以外はみんなカナダ人の女性で、ヒマな時はリビングに行けば誰かしらいて、恋愛の話や仕事の話で盛り上がった。その頃、元夫と付き合い始めていた私はその相談にも乗ってもらったりしたものだ。彼がデートのために迎えに来た時など、みんながカーテンの端から覗き見して、帰宅後に「He is so cute!」などと冷やかされたりもした。

 

それからしばらくして彼にプロポーズされ、一旦帰国してマンションを引き払い、両親への挨拶などを済ませ、段ボール10箱ぐらいの荷物と共に再びカナダに行き結婚式を挙げた。

夫が一人暮らしをしていたマンション内のもっと広い部屋に越してくれたので、そこで新婚生活をスタートさせた。古い石造りのマンションだったが自由にリノベして良いというので、壁の色を塗り替えたり、備え付けの家具を取りつけたりして快適に暮らしていた。当時は専業主婦だったので、ガレージセールで安く手に入れた家具にペンキを塗って金具を替えたりとDIYにも凝っていた。マンションの2軒隣にテイクアウトも出来るイタリア系の食堂があり、そこのピーカンパイに2人でハマり、毎日のように食べていたのを覚えている。

私にとっては環境が変わった上に仕事もなく友達もほとんどいなかったので、そのストレスから夫婦喧嘩も多かったが、週末になると2人で近くの大型スーパーに買い出しに行き、飲みながらおつまみを料理して映画を観たりと、それなりに仲良く暮らしていたように思う。

 

結婚して1年ほど経った頃に夫が新築のマンションを購入した。金融街から徒歩圏内のエリアで、独身ビジネスマンやクリエイター夫婦などが住むデザイナーズマンション。天井が高く暖炉と広いルーフバルコニーもあり、私はその部屋をとても気に入っていた。

ようやく就労ビザもおりて仕事を始めた私の生活も一変した。同僚や仕事を通じて知り合った人などとの交友関係も広がり、夫への依存でなく「自分の生活」を持ち始めた私を見て、夫もホッとしたようだった。子どもがいないこと、そしてそれまでの反動もあり、お互い平日は遅くまでそれぞれの友人と出かけることが多くなった。

 

それでも3年ほどは、週末は必ず2人で過ごしていたし、平日に発散しているぶんケンカする事もほとんどなくなり、一番楽しい時期だったかもしれない。徒歩圏内に大きなマーケットやドーム型球場、レイクサイドエリアなどがあり、週末は2人であちこち出かけたりそれぞれの友人を招いてバルコニーでBBQパーティをやったり、少なくとも表面上は賑やかな結婚生活を送っていた。

 

ただ一方で、この頃から互いの自由な時間を持ちすぎたために夫婦間の距離がだんだんと広がっていたのだと思う。結婚してから5年弱の同居生活の、最後の半年ぐらいは2人ともほとんどまともに会話することがなくなっていた。朝帰りした夫の気配をベッドで感じながらも「おかえり」を言わない私、先に出勤する私の気配で目が覚めても「行ってらっしゃい」を言わない夫。夫が私に相談もなく友人と共同出資で飲食店を始めたことも夫婦間の大きなしこりになっていた。

そして私は、仕事で知り合った年下の男性に心を奪われ、夫に隠れて会うようになっていた。夫は何も言わなかったが、おそらく誰かがいる事には気づいていたと思う。夫の方も時々香水の匂いをさせて帰ってくるようになった。

ある日夫が「新規事業のためにしばらく海外に行くので、君は東京に一旦帰ったらどうか」と言ってきた。夫も私も夫婦生活に疲弊していたので、話し合いの末、結局そのままマンションもお店も売却して夫は東南アジアへ、私は東京へと引っ越すことになった。

 

私の方が先に東京へ経ったのだが、その出発日の朝の事を思い出すと今でも胸が痛くなる。夫は朝方酔って帰宅し、そのまま起きてこなかった。私はネコ2匹を入れた大きなケージとスーツケースを持って「もう行くけどそのまま起きないのね…」と怒りを滲ませたため息をついて家を出た。

たまたま止めたタクシーの運転手がネコ嫌いでブツブツ文句を言われ、空港の職員もネコアレルギーだからと言って私の荷物を扱うのを嫌がり、私は孤独と自分への憐憫の気持ちでわんわん泣き出したいような気持ちでカナダを後にした。

 

今考えると、あの朝夫がギリギリまで飲んで見送りに起きてこなかった気持ちも少し理解が出来る。私がカナダを発ったあの日から、私たち夫婦の関係は修復不可能だったという事実を、夫も薄々感づいており、それをどうにも出来ない自分をもどかしく思っていたのではないかと思う。

その後、別居したことで少しだけ関係が修復され、一年半ほどは夫が時々東京に会いに来ていたし、事業が軌道に乗ったらまた東京で一緒に住もうという話も出ていた。結局そうはならなかったのだけど、その時のいきさつはまだ上手く文章に出来そうもない。

 

振り返ってみると、私の転居歴はそのまま人生の転機とも重なっているような気がする。少なくともそれまでのライフスタイルや交友関係が引越しによって多少なりとも変わるという経験をこれまでに何度も繰り返してきた。

私にとって引越しというのは、人生でつまづいた様々な困難から逃げ出し、生活をリセットする儀式のようなものなのかもしれない。

f:id:shiofukin:20180129191444j:plain

 

父と母のこと

お正月に実家へ行き、憂鬱な気持ちで帰ってきた。

5年くらい前までは、実家でお正月を過ごすことは割と楽しみな行事だったのだが、ここ数年は年老いた両親と対峙することが億劫になってしまっている。

今まで私は自分が円満な家庭に育ったと思っていた。天然で奔放なところもあるけど優しい母、厳しくて口うるさいけど威厳のある大黒柱の父、個性的で私の感性にいつも刺激を与えてくれる姉、そして「いい子」を演じる末っ子の私。

だけど父が定年退職して母の意に沿わない(何のゆかりもない)田舎町に強引に引越してから雲行きが怪しくなった。ここ10年ほどで両親の間にいくつかのまあまあ深刻なトラブルがあり、私は生まれて初めて「家族問題」というものに悩むようになった。

私が末っ子であるが故の無邪気さから気づいていなかっただけなのかもしれないけど、自分の家族はある種完璧な形を保っていると思い込んでいたので、そのショックは大きかった。そして今ではお盆やお正月に実家に帰って70代の両親がつまらない事で口論したり、くすんだ実家の様子を通して二人の”老い”を目の当たりにすることがひどく苦痛に感じられる。

 

私の父は某省庁に勤める国家公務員で、一言でいうと「昭和の男」だ。日本海に面した田舎町で古い価値観を持つ母親に育てられ、時代錯誤とも言えるほどの保守的な考えを持っている。私が小さい頃は顔も性格も父とうり二つだった事もあり、息子が欲しかった父は私を自分の分身のように見ていたのかもしれないと思う。趣味の将棋を小学生の私に仕込もうとレッスンしてくれたが、飽きっぽい私はすぐに音を上げてしまった(当時は天才女流棋士林葉直子さんの全盛期だった)。

父との楽しい思い出と言えば、毎年大晦日になると、母のおせち料理の仕込みを邪魔しないように(という名目で)姉と私を連れて映画館に「寅さん」を観に行く恒例行事があった。おかげで姉も私も「寅さん」が大好きで、今でもみんなで集まると「あのメロンのくだりが」などという話で盛り上がったりする。大学時代、体調不良で行けなくなった母の代わりに父と2人でヨーロッパ旅行に行ったこともある。父と2人きりで何日も過ごすのは初めてで緊張したが、旅先での父はいつもよりはしゃいでいるようで、ローマの食堂のパスタの美味しさに感動したり、ロンドンのコナン・ドイルゆかりのパブで気取って写真を撮ったりしたのは良い思い出だ。

とは言え、思春期以降は父の時代錯誤な物言いに辟易するようになり、また、いつも批判的な目で見られているような気がして父の前では劣等感を感じる事も多くなった。今でも父と会う時は服装など気を遣うし、面と向かって話す時は少し緊張する。

 

母は家族の中で唯一の”ボケ”担当(父も姉も私も完全にツッコミキャラ)でフワフワした人なのだが、その一方で頑固なところがある。

料理やパッチワークが好きで、友達が遊びに来ると家のインテリアや母の手作りの洋菓子を羨ましがられたりした(あくまでも昭和50年代の話)。母は大の音楽好きでもあり、学校から帰ると母がデカいPioneerのレコードプレイヤーでマイケル・ジャクソンエルヴィス・プレスリーを流しながら洗濯物を干したりしていたものだ。

母の思い出というと、とにかく料理にまつわるものが多い。小さい頃は母がキッチンに立って夕食の支度を始めると、隣に立ってその包丁さばきや鍋の中で食材が美味しい料理に変化していく様を夢中になって見学するのが私の日課だった。母はカレーライスやハンバーグやグラタンといった、子どもが好きな料理は自分があまり好きではないせいもあって(笑)あまり積極的ではなく、小さい頃から割と大人っぽいものを食べていたような気がする。そして父が残業終わりで帰宅して晩酌を始めると、自分の夜ご飯には出てこなかった「カレイの煮つけ」だとか「白子」だとか「バイ貝」だとか、いかにも美味しそうなおつまみがテーブルに並び、私は羨ましい気持ちでそれを眺めていたものだ。私が今、大のお酒好きで辛党なのはその影響もあるかもしれない。

母は少女のような気持ちを持った、良くも悪くも”自分中心”的な感覚のある人で、それは彼女が幼い頃に姉弟の中で最も父親に溺愛され、また若い頃から男性にチヤホヤされてきた事と無関係ではないと思う。

母は40代ぐらいまで割と熱心にテニスをやっていたのだが、近所のテニスクラブでいわゆるマドンナ的存在だったらしく、私も学校が休みの日に連れて行ってもらった時など、クラブハウスのレストランでエビピラフを食べながら、母が華やかな様子でテニス仲間と話すのを見て少し誇らしい気持ちになることもあった。東京で生まれ育った母は倹約家の父とは対照的で、銀座で買い物をしたり映画を観たり友達とバーへ飲みに行ったりするのが好きだった。

父は仕事で単身赴任したりと不在がちだったが、母と娘2人の3人でキャッキャ言いながら楽しい生活を送っていたように思う。

 

何だかこうして書いていると、やっぱりそれなりに幸せな家庭だったように思えてくる。もしかしたらそのことが私に「家族」というのはキラキラし続けなければならないものだという概念を植え付けたのかもしれない。そして私が年老いていく両親の姿や、色褪せていく実家の景色に必要以上に失望を感じてしまうのは、まだキラキラした家族への希望を持ち続けているからなのだろう。

でも現実では、親が老いていく姿を真正面から受け入れ続けなければならない。だから私はこれからも憂鬱な気持ちを抱えながら、毎年懲りずに実家に足を運ぶ。

f:id:shiofukin:20180111191204j:image

 

クリスマスのこと

クリスマスの思い出と言えば、小学生ぐらいから大学時代までが一番キラキラしていたように思う。

小学校時代は一年間で一番楽しみな日がクリスマスイブで、一か月くらい前から楽しみで仕方なかった。姉とクリスマスツリーの飾りつけをして、欲しいおもちゃをお願いする手紙をサンタさん宛てに書いて、イブは一番お気に入りの服を着て家で母と姉と一緒にグリルチキンとケーキとシャンメリーでお祝い。クリスマス当日の朝は早くプレゼントが見たくていつもより早起きしたものだ。

父は仕事で留守がちだったので家族パーティには参加しなかったが、日本語をローマ字で書いた”サンタからの手紙”をくれたりして、父なりに愛情を注いでくれていたように思う。

中学に入ってお菓子作りが趣味になった私はクリスマスケーキ作り担当になった(甘いものが苦手な完全辛党になった今では信じられないけど)。当時桑田さんとかさんまさんが色んなアーティストを集めてコラボソングを歌うクリスマス番組があって、姉と私はそれを毎年ものすごく楽しみにしていた。中2のころだったか、メイクとか仮装に興味を持ちだした私はジュリー的なメイクをして男装をし、おめかしした姉と一緒にクリスマス写真を撮ったりもした。学校行事以外でクリスマスに友達とパーティをしたり出かけたりした記憶はあまりなく、私にとってクリスマスはあくまでも家の行事だった。

大学時代はバブル時代の名残がまだ少しだけあったせいか、クリスマスは彼とイタリアンで食事してドライブし、夜景の見えるホテルに泊まる、みたいな過ごし方をする人も多く、出不精であまのじゃくな私ですらそんなような事をした年もあった。

 

私が今までに過ごしたクリスマスで一番思い出深いのが20歳のクリスマスイブだ。

当時、ホテルで行われるパーティなんかでお酒や食事を配るコンパニオンのバイトをしていた私は、当然クリスマスイブもどこかの会社の20周年記念パーティに駆り出されており、クリスマスらしい予定を何も入れていなかった。夜10時過ぎに横浜のホテルを出て、このまま帰るのは寂しすぎる!と思った私は、同じサークルの同期で気になっていたA君に思い切って電話してみることにした。A君はハーフっぽい綺麗な顔立ちをした長身リア充風お坊ちゃんで後輩女子からも人気があり、イブ当日にヒマなどという事はないだろうなと思ったが、私は彼の”そこはかとなく漂うオタク臭”に一縷の望みを抱いていた。

何度もためらいながらようやく電話してみると、彼は奇跡的に自宅で大学の男友達と試験勉強中だった(さすが理系)。それまでサークルのイベントでしか顔を合わせた事がなかった私が”イブの夜”なんていう重めのタイミングでいきなり電話しても大丈夫か心配だったが、彼は軽い感じで「じゃあ駅前のドーナツ屋で会おうよ」と言ってくれた。

ドキドキしながらドーナツショップで待ち合わせし、コーラを飲みながら今日のバイトの話なんかをしていると彼は「ホントは家で一緒にクリスマスパーティやりたいんだけどB(男友達)に会わせたくないんだよなぁ」と言った。私はB君がいようがいまいが、このままバイバイするよりはA君の家に行って一緒にイブを過ごしたいと思ったので、「いいじゃん、3人で楽しくパーティやろうよ」と言ってA君の家に押しかけた。

コンビニでお酒やおつまみやケーキを買いこんで3人でワイワイ過ごしていると、A君の心配した通り、酔ったB君が軽いノリで口説いてきた。私は曖昧な返事を続けていたが、時間が経つにつれてB君を止めないA君の方にちょっとした怒りが湧いてきた。そしてB君が隣に来て肩に手を回してきてもそのままにしていた。

だんだん気まずい雰囲気になり、B君がトイレから戻ってきたタイミングでようやくA君が口を開いた。「ちょっとしおさんと2人にさせてもらっていい?」B君はちょっと不満げだったがA君が真顔なのを見ると「じゃあちょっと横になるわ」と言って寝室に入っていった。

私はリビングのテーブルを挟んでA君の向かい側に改めて座り直した。しばらくの沈黙の後、A君は今日私から連絡があってすごく嬉しかった事、ひょっとしたら私も自分の事好きなのかなと期待したけど今日の態度を見ていると単に遊び友達を探しているだけなのかと感じた事などを冷静に語り始めた。

私は内心、彼も自分に好意を抱いてくれている事を知って有頂天になったが、表面上は神妙な面持ちで謝罪し、素直にA君のことが気になっていると伝えた。するとA君はようやく笑顔になり、テーブル越しに私の手をギュッと握って「良かった。じゃあ付き合おう」と言った。その日はソファで2人で抱き合って寝た。ドキドキして全然眠れなかったけど。

 

A君とはその後半年ほどで割とあっさり別れてしまったのだけど、この夜の出来事はなぜか今でも、その一連の会話だとか彼の誠実な眼差しだとか自宅のソファの感触までが臨場感を伴って思い出される。それはこの日が、当時の私が特別に感じていた”クリスマスイブ”という日だった事と無関係ではないかもしれない。

クリスマスイブにぬくもりだとか煌びやかさを感じなくなってからもう何年も経つけれど、私が今でもこの出来事をときどき懐かしく思いだし反芻してしまうのは、失われてしまった自分の純粋な恋心だとかクリスマスを心待ちにする無邪気さに対する未練なのかもしれない。

おわり

f:id:shiofukin:20171222193017j:plain

忘れたい町

ハッピーな思い出について書こうかなと思ったのだけど、書きたいことリスト(思いついたら時々携帯にメモしてるだけだけど)を眺めていたらビョーンと目に飛び込んできたワードがあって、そのどんよりした思い出が頭から離れないので、それについて書くことにした。

そのワードは、ある都内の町の名前だ。

 

誰にでも人生の山と谷があるものだと思うけど、私の場合30歳からの数年間は間違いなく「谷」だった。カナダから独りで帰国し、実家の居候生活を経て最初に引っ越したのがその町だった。就職が決まった会社に電車一本で行けて駅のすぐ近く(&猫OK)という条件で急いで選んだ家賃9万円のマンションは築30年くらいの薄暗い1DKで、毎朝うっすら京浜急行の音が聞こえるような部屋だった。

それまで住んでいた(結婚を機に夫が購入した)カナダのデザイナーズマンションに比べたら本当に侘しい部屋だったけど、自分なりに居心地良く家具を配置し、毎日部屋で好きな音楽をかけ、好きなテレビをみて、ひとりでお酒を呑んだりする時間は悪くなかった。

 

そこに住んで新しい職場に通うという生活が半年ほど続いた頃、会社から昇進を言い渡された。30歳で全く初めての業界に入るというのは私なりにチャレンジだったからひたすら一生懸命に仕事をしていたら上司が認めてくれたのだ(会社としても、年齢や社会人経験を考慮して元々半年ぐらいで育てあげるつもりだったのだろうけど)。

仕事は面白かったし、お給料が上がるのは嬉しかったけど、新しい部署を作ることになり新人を何人か雇ったりして、この頃から仕事量が格段に増えた。終電で帰れればラッキー、終電を逃してもタクシー代は落ちないという、今なら完全にブラックな労働環境だったけど、当時はそれがこの業界の常識という感じだった。

それから一年間ほどは新しい部署の立ち上げで、試行錯誤しながらもある程度自由にやらせてもらえる一方で、責任も、期待される成果もだんだん大きくなっていき、プレッシャーに押しつぶされそうな毎日だった。

そしてちょうど同じ頃、まだ正式に離婚が成立しておらず揉めていた私の携帯には夫からしょっちゅう感情的な国際電話がかかってきて、それも私の心を重くしていた。今考えると何をどうやってあの日々を乗り越えたのか本当に想像もつかない。

 

当時、身も心も疲れ切って残業後に(自腹の)タクシーで帰る途中、よく近くのスーパー銭湯に寄っていた。24時間営業だけど深夜3時過ぎの女湯は貸し切り状態で、メイクを落として熱い湯に浸かり、身体が温まった頃に屋上の展望風呂に上がるのが私のルーティーンだった。展望風呂は塀に囲まれていて(当時)、石の枕がついた浅い浴槽に仰向けに寝ると空が見えるようになっていた。物音ひとつしないその展望風呂で深夜の東京の空を眺めると、自分が世界でひとりぼっちになったような気がして、「自分の人生はこの先どうなるんだろう」とか「こんな毎日を送って身体を壊したらどうしよう」とか「マンションに帰ってドアの前に夫がいたらどうしよう」とか、不安な日々を反芻するばかりだった。

 

それから間もなく、仕事も少し落ち着いてきて夫もようやく離婚を承知してくれ、私はもっと会社からタクシー代がかからない部屋に引っ越すことにした。そして選んだのは、賑やかな街にある真っ白で明るい新築のマンションだ。

引越し当日、新しい部屋に足を踏み入れた時、私は目の前がパーッと開けたように晴れ晴れとした気持ちになったのを覚えている。大げさかもしれないけど、やっと谷底から抜け出ることが出来たように感じたのだ。

 

それから何度か引越しを繰り返し今に至るのだけど、今までどこに住んだことがあるか、という話になった時、いつの間にか私はその町に住んでいた事を言わないようになった。あの頃を思い出したくないからだ。

だけど私の意識から完全にそれが消し去られることはなく、仕事でしんどい時や寂しい夜にふと、あの町のスーパー銭湯から見上げた真っ暗な空を思い出すことがある。その度に当時の自分がかわいそうに思えて胸がキュっとなると同時に、あれを乗り越えた私なんだから今も大丈夫と、この頃はそう思えるようになりつつある。

f:id:shiofukin:20171121185855j:image

大人のじぶん

 打ち合わせが終わり少し時間が余ったのでパソコンを開いてみた。

 こうして毎日仕事で色々な大人たちと打ち合わせなんかしていると、「あぁ、自分も大人になったものだなぁ」と思う事がある。

 実際、年齢的にはとっくに大人なのだから当たり前なのだけど、主観で見る自分は小さい頃からさほど変わらなくって、姉の前でおどけてアイドルのモノマネをしていたちびまる子ちゃんみたいな自分が、ハイヒールで街を闊歩し、見積もりやら契約書やらを手に取引先と交渉したりしている事がとても不思議に思えてしまう。目の前の取引先の大人も、同じような事を感じているのかな、とふと思ったりする。

 小学生の頃は学校の先生になりたかった。小学3、4年の担任がテニスのナブラチロワ選手似のテキパキした先生で、その先進的な考え方に私は衝撃を受けた。ナブラチロワ先生はとても厳しかったけど、「今までに受け持った中で一番優秀な子かもしれない」と私に目をかけてくれていて、私もその先生を崇拝していたのだ。(大成しなかったのでその先生には申し訳ない…。)

 中学に入ると、元々読書が好きだったこともあり、国語の先生か小説家になりたいと思うようになった。そして高校で完全にアメリカかぶれをこじらせてしまい、大学では英語を勉強して通訳か翻訳の仕事をしようと思っていた。

 英文学科へ行けば英語が喋れるようになると思っていた私は、シェイクスピアなんか全然好きじゃなかったけど英文学科に進んだ。当然の事ながらそれでは実用英語など学べないので、独学で英会話とビジネス英語を勉強し、4年間を終える頃にはかなり喋れるようになった。何でも三日坊主な私が唯一熱心に毎日続けたのが、この時の英語の勉強だ。本当に英語という言語が好きで楽しかったから続けられたのだと思う。

 超就職氷河期の中、大手の女性総合職の求人はほぼ皆無で、ある業種の小さな国際事務所に入った。そこには女性の総合職が私しかおらず、おじさま達から何となくちやほやされた。その一方で事務の女性社員の仲良しグループには入り込めず、割とあからさまないじめを受けて、一年ほどでほぼ辞めさせられるような形で退職した。

 当時は本当に理不尽だと思っていたけど、今思うと私も新人のくせに色々と生意気なところがあったのだと思う。それに、結局そこを辞めたことで色々な道が開けて、20代前半で翻訳の仕事に就くことが出来たので、今では前向きに捉えている。(それにしても本当に閉鎖的な職場だったなと思うし、退職の日に私に聞こえるように「あー良かった!」と言ってきた経理のババアを思い出すといまだにムカつくのだ。)

 それから紆余曲折を経て13年ほど前に今の仕事に出会い、会社勤務を経て3年前に何とか自分の会社を立ち上げることが出来た。昔夢見た通りではないけれど、私にとっては”天職”に近いものかもしれないなーと思っている。

 またいつ転機が訪れるかはわからないけど、それまでは今の仕事を精一杯やっていきたい。そして時々は、将来を夢見ていた頃の自分を思い出して「なりたかった自分になれているかな?」と問いかける心の余裕を持っていられたらと思う。

f:id:shiofukin:20171026173405j:image

二十歳のたびの完結編と

 シカゴのセントラル駅からアムトラックに乗り込むと、車内は予想外に穏やかな雰囲気だった。車社会のアメリカでは長距離列車を利用するのはお年寄りが多いようで、想像していたような荒んだバックパッカー客などはいない。更に各車両の最後列に乗務員が一人ずつ常駐しており、私の乗った二等車両にも身長190センチぐらいはありそうな陽気な黒人乗務員さんがいてあれこれ乗客に話し掛けており、私は一気に緊張がほぐれるのを感じた。

 パスポートとお財布だけは肌身離さず持っていたけど(当時はまだ現金とトラベラーズチェックを使っていたのでよくあるメッシュの巾着みたいなのに入れて服の中に隠してた)、あとは荷物置き場に置いても大丈夫と判断し、座席からの車窓に飽きたら展望車や食堂車、スナック(軽食)車などをぶらぶらして過ごした。

 一日目の夜は、乗客の中では比較的少数派である若いバックパッカー達が、スナック車に何となく集まっていたので私もそこに参加した。確かアメリカ人はほとんどいなくて、メキシコとかヨーロッパから来たひとり旅の男性ばかりだったように記憶している。ひとりがギターを弾き始めたりしてワイワイ話しながらぬるい瓶ビールとチップスで楽しい時を過ごした。座席に戻ってからも、二等車両の座席はフラットにならないし車輪の振動と摩擦音でほとんど眠れなかったが、若かったせいか疲れなど感じなかった。

 

 二日目にアルバカーキかどこかで列車が1時間休憩するというので私も列車を降りてストレッチしていると、アジア人男性と目が合った。すると彼が「日本人ですよね?」と日本語で話し掛けて来た。昨日から車内で見かけた唯一のアジア人だったから私も何となく気にはなっていたが、その顔立ちや体格の良さからみてアジア系アメリカ人だろうと思い込んでいたので、彼の関西訛りの日本語に少しびっくりしてしまった。

 少し立ち話をすると、彼は関西の大学に通う大学3年生のバックパッカーで、私と同い年だという事が分かった。彼は昨日から私に話しかけようかずっと迷っていたという。私たちはすぐに意気投合した。列車内に戻り、私が隣の席の女性に事情を説明すると、出発以来ずっとヒマワリの種ばかり食べているその女性は「あら、旅の友が出来て良かったわね」と言って快く彼と座席を交代してくれた。

 普段ならひとり旅を邪魔されるのは煩わしいと思うはずなのだが、彼は同い年にしては”ちょっと上等な男”という感じで、かつソフトで誠実そうな雰囲気を持っており、私はあと残り一日の旅の仲間として好ましく思った。

 

 それから二人で「何を勉強しているのか」とか「就職はどうする」とか「何で一人で列車旅なんかしてるんだ」とか話しているうちにあっという間にLAに到着し、そのままLAに数日間滞在するという彼とは駅で別れ、私は帰国の途についた。

 彼は関西、私は東京だが、連絡先は交換していたので、帰国後に何度か電話がかかってきて、数か月に一度手紙のやり取りもした(何で手紙だったのかよく覚えていないけど、携帯はまだ電話機能のみだったし、PCメールもそんなに頻繁に使わないような時代だったんじゃないかな…)。そして彼が何かの用事で東京に来た時に初めて二人で食事に行った。帰り際に彼が改まって「もし良かったら僕と付き合って欲しい」と言ったので、私は承諾した。

 

 しばらく遠距離で、彼が数回東京に会いに来てくれた他は電話で話すことしかできず寂しい状態が続いたが、大学卒業後、東京の商社に就職が決まった彼が上京してきた。私たちはこれでいつでも会えるね、と言ってデートを重ねた。でもその後、私が半年ほど海外に行くことになり、また遠距離恋愛が再開すると何となく気持ちがトーンダウンし、結局別れてしまった。

 

   こんな風に昔付き合っていた相手の事を思い出す時、今どうしてるのかなぁという想像の中には必ず、素敵な奥さんと可愛い子ども達に囲まれ、郊外の一軒家に住み仕事も充実している、いい感じに渋くなった男性の姿がある。それはきっと私が若い頃に何の気なしに手放してしまった理想の家庭像なんだろうと思う。

   もし彼らが私の事をふと思い出す事があるとしたら、その想像の中では私も理想の家庭を手に入れ、素敵に輝く女性であって欲しいなと願ってしまう。

f:id:shiofukin:20171007175833j:image

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二十歳のたび② ~滞在編~

 旅の行程で立ち寄ると決めていた場所が二か所だけあった。

 一か所目はラスベガス。ギャンブルにお金を使わせるために宿泊費と食費が安く設定されていると聞いていたので、そこでまともなホテルに泊まり美味しいものを食べようと決めていた。とは言え、私たちの予算ではラブホテルみたいなケバケバしい内装の中級ホテル(ただ、高層階だったからネオンの街が一望出来た)に泊まり、カジノに併設されたレストランで大味のステーキを食べて、スロットを少しいじっただけだけど、マフィア映画なんかでよく見ていたラスベガスの安っぽいきらびやかさはとても刺激的だった。翌朝、質屋が並ぶエリアを通るとみすぼらしい服装をした生気のない人々が目立ち、街全体が埃っぽく寂れて見えたのも印象的だった。

 二か所目はグランドキャニオン。これはA君も私も絶対に外せない観光地ということで一致した。確か夕方近くに到着して、その壮大さと色の美しさにひとしきり感嘆した後、お決まりのように崖ギリギリに座って写真を撮り合ったりした。本来ここが間違いなくこの旅のハイライトなのだろうけど、「とにかく美しい景色だった!」という事しか覚えていない。何の変哲もない田舎町の郵便局でポストカードを出したこととか、ひと気のないマクドナルドでぺちゃんこのハンバーガーをテイクアウトしたこととかの方が鮮明に思い出せるから不思議だ。

 

 ラスベガスとグランドキャニオン以外はひたすら走り続け、5日目に無事NYに到着。もはやA君とはろくに会話もしなくなっていたけれど、マンハッタンの高層ビル街に入ると、久々に車内に和やかな空気が漂った。

 アメリカの中でも私が一番憧れていたNYの第一印象は「縦長な街だなぁ」という感じだった。東京とそんなに変わらないだろうと思っていたら、高層ビルの密度というか圧迫感が想像以上で、“生き馬の目を抜く”という表現が頭に浮かんだ。

 

 今の若い人にはあまりピンとこないかもしれないけど、当時のアメリカはまだ、日本人が憧れる、“大国としての輝き”みたいなものを残していたように思う。特に、高校時代からアメリカの映画やドラマの影響でひどくアメリカかぶれしていた私は大きな期待を胸に抱いてNYに入ったが、見聞きする全てのものが期待通りかそれ以上だった。

 その夜は一旦のゴールを迎えたということで、持っていた中で一番マシな服を着てA君とレストランへ行き、乾杯をした。その日何を食べて、A君と何を話したかはあまり覚えていない。ちなみにA君は元彼なのだけどとっくに別れていて、お互いをよく知っているせいかもうあまり興味がなかったんだと思う。普通の男友達だったら5日間も一緒に泊まったら何か起きたかもしれない。

 

 そこから私はシカゴに住む高校時代の先輩Bさんを訪ねることになっていたので、翌日、車でまたLAに向かうA君にシカゴまで送ってもらい、風がビュンビュン吹くシカゴの街のど真ん中で別れた。(私が今までの人生で最も影響を受けた女性の一人であるB先輩の部屋での居候生活もまた刺激的な思い出に満ちているのだけど、その話は長くなりそうなのでまた改めて。)

 

 シカゴに一週間滞在し、ドライブ旅中の栄養不足による口内炎も治った頃、ようやくアムトラックによる2泊3日のひとり列車旅が始まった。私はその旅で思いがけない出会いをすることになる。

 

  と、意味深に前置きしたところで時間がなくなってしまったのでまた近々続き書きます。(次こそ完結します)

おわり

f:id:shiofukin:20170927165739j:image

 

二十歳のたび① ~ドライブ編~

 大学生3年生の夏にアメリカ横断旅行をした。アメリカ横断は私が学生の間に是非やっておきたいことのひとつだったのだが、ある日「夏休みにアムトラックアメリカ横断長距離列車)のチケットを取って行こうと思う」とサークルの先輩A君に話したところ、彼も卒業旅行でLAに行く予定なのでそこからNYまで車で一緒に横断しないか、という棚ぼた的な話が持ち上がった。私は免許を持っていなかったのでその話に喜んで便乗した。行きは彼の運転する車にLAからNYまで乗せてもらい、帰りはアムトラックでひとり旅を楽しむことにした。

 時間と予算の都合上、ほぼ走りっぱなしで5日間でNYまで行くという超ハードスケジュールだったので、A君は朝から晩まで運転し続け、私は助手席でナビと食事係になった。食事も通りがかりのファストフード店のテイクアウトか、スーパーで買いこんだパンや缶詰を車内で簡易サンドイッチにしたもので済ませ、トイレ休憩がてらガソリンスタンドに寄り、毎日夜9時ごろになると近くの町を地図で探して安モーテルに泊まった。

 

道中で二度ほどヒヤっとするトラブルがあった。

一度はやっとその日の宿泊先を見つけA君が建物の入口を探しに行っている時、なかなか戻ってこないA君を探しに行こうとして“インキ―”してしまった時だ。ワイヤーハンガーなどで直せるタイプのロックではなく、あれこれ試したがうんともすんともいわない。モーテルの電話を借りてAAA(日本でいうJAF)に電話すると「その車種は特殊な機械じゃないと開かない」と言われたので来てもらうことになった。

車の外で二人で待つ40分間は針のむしろだった。ただでさえ運転を交代出来ない役立たずなのにこんなミスをして、運転でクタクタになったA君に余計な負担をかけてしまい、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。でも幸いまだ旅の前半でお互いの存在に嫌気がさす前だったので、A君は怒ったりせず「まあしょうがないよ」と言って慰めてくれた。

 

 二度目はコロラド州の田舎町で、8月だというのに雪が降った夜だった。近くの町を探しながら走っていると、おんぼろのトラックが道端で立ち往生していて、その隣に50代ぐらいのおじさんがいてこちらに向かって手を振ってきた。夜だったしスルーしようか二人で迷ったが、雪も降っているし他に車も通りそうもなかったので、気の毒に思って車を止めた。おじさんは近くの農家の人で、車が故障してしまったので自宅まで送って欲しい、とのことだった。大人しそうなおじさんだったので、特に危険はないだろうと思い乗せて行ってあげることにした(今だったら絶対にそんなことはしないけどね)。気を遣って私が助手席から振り向いておじさんにあれこれ世間話をしていると、急におじさんがイライラした口調で「君たちとは話をしたくないから黙っていてくれないか!」と言ってきた。私もA君もその剣幕に驚いて黙り込んだ。私たちは「後ろから撃たれたりしませんように…」と祈りながらおじさんに言われるがままに15分ほど走り、ようやく自宅に着くとおじさんは不愛想に「Thanks」とだけ言って乱暴に車を降りていった。

 車が故障して不機嫌だったのか、それともアジア人なんか大嫌いだけど他にいないから嫌々私たちの車に乗ったのか、理由はわからないけど私もA君もこの出来事でひどく疲れてしまい、その日は早めにモーテルにチェックインした。今考えると殺されたりしなかっただけでもラッキーなのだけど。

 

トラブルはあったし、せわしないドライブ旅だったし、5日間の後半にはA君との空気もだんだん悪くなってきたのだけど(そりゃあ他人と5日間もずっと2人きりでいたらお互いの存在が疎ましくなるよな…)、当時憧れていたアメリカという国の色々な顔を見ることが出来たのは本当に興味深い体験だった。

おそらく車での旅でなかったら一生通らないであろう町でスーパーとかガソリンスタンドに立ち寄ったり、雲の影がくっきり見えるほど何もない平原に挟まれた、真っすぐ一本にのびるハイウェイでガンガンに音楽をかけて走ったり、真っ暗な砂漠地帯を延々と走った後に忽然と現れるネオンだらけのラスベガスの街にワクワクしたり、二十歳ごろのあの感受性があったからこそかけがえのないものに感じられた大切な思い出がたくさんできた旅だった。写メもビデオもなかったけど、なんていうことのない車窓の景色の数々が今でも鮮明に浮かんでくる。

 

長くなってしまったけど帰りのひとり旅でもまた色々あったので、続きはまた書きます。 

おわり

f:id:shiofukin:20170927150501j:image

 

ぼんやりとした思い出

 先日、たけしさんがテレビで「バイク事故の前後の記憶があまりない」と言っていた。話の文脈から、単純に事故当日から目が覚めるまでの事を覚えていないというより、事故に遭うまでの経緯というか、当時の生活の中で自分がどんな事を考え、行動していたかの記憶が曖昧だというように私は受け取った。

 

 たけしさんの臨死体験と自分の離婚話を結び付けて語るなんて全くおこがましいのだけど、それを聞いて私は、自分の離婚前後の記憶が(割と信じられないレベルで)すっぽり抜けている事はそんなに異常な事ではないのかもしれない、と思うようになった。

 今となっては笑い話だけど、離婚後何年か経って”離婚証明書”が必要になり、区役所に行ったら申請書類に「離婚成立の日付」を書く欄があって、何となくの記憶を辿って日付を書いて提出したら職員の人に「こちらの記録ではこの日付より1年以上前に離婚届提出があったようなのですが、これとは別の離婚の件ですか?」と訊かれたことがある。

 離婚なんていう人生のビッグイベントの日付を年単位で間違えるなんて有り得ないと思われるかもしれないが、実際今でも、離婚を決意してから離婚成立後に自立するまでのトータル2年ぐらいの記憶がひどく曖昧なのだ。

 

 その曖昧な記憶の中で、いまだに「あれは何だったんだろう?」と時々思い出す小さな出来事がある。(※エロい話ではないです)

 

 当時海外に住んでいた私は夫と別居することになり、身の回りの荷物をまとめ、飼っていたネコ2匹を連れて帰国した(当時30歳)。実家に居候させてもらいつつ就職活動と部屋探しをしていたが、何も予定がない時は家でボーっと過ごす無気力な日々が続いていた。

 ある日、散歩がてら家から徒歩20分ほどの距離の古本屋さんにぶらりと行ってみると、お店はまだ開店前だった。張り紙を見ると開店まであと30分もある。「他にすることもないからその辺に座って待つか」と思い周辺を見ると、お店の脇に一人の男の子が座っていた。夏服の制服らしき白シャツと黒いパンツを履いた高校生ぐらいの男の子だ。

 他人とほとんど会話をしない日々が続いていたせいか、私は何となく人恋しい気持ちになり、その男の子に「お店開くの待ってるの?あと30分もあるね」と話しかけながら隣に座った。ひと昔前の不良少年みたいな雰囲気のその男の子が軽く頷いたので「今日、学校はお休み?」と訊いてみた。

 すると彼は、自分が高校一年生で、先輩とちょっとしたトラブルを起こして停学中であることや、ここから自転車で5分ほどの家に住んでいること、ヒマなので何か面白そうなマンガでもないか見に来たことなどを話してくれた。ポツポツと会話を続けているうちにおばさんが古本屋を開けたので、私たちは「じゃあ」と言って狭い店の中にバラバラに入った。

 私が東海林さだおの本を買ってお店を出ると、マンガを数冊カゴに入れて自転車にまたがる彼とちょうど目が合った。私が咄嗟に「後ろ乗せていって」と言うと、一瞬びっくりしたような表情になったが「いいですよ」と言って自転車を傾けてくれた。

 さっき会ったばかりの男子高校生の腰につかまって二人乗りをしながら、「ここ右」とか道順を説明しながらガタガタ揺られていたら、ふと自分の青春時代の感覚を思い出して、急に鼻がツンとなった。私の実家の前に着くと、私は鼻が赤いのを見られないようにうつむき加減に「ありがとう。何か急に送ってもらっちゃってごめんね」と言った。すると彼は「大丈夫です、じゃあお元気で」と言って私の手を取り一瞬だけギュッと握ると、自転車にまたがって帰って行った。

 

 他人からしたら「だから何だ?」という話だと思う。でも私にとっては実家に居候していた数か月間のうちで唯一印象に残っているのがこの出来事で、男の子の顔などとっくに忘れてしまっているのだけど、10年以上経った今でも時々思い出すことがある。たぶん、無味無臭の日々を送っていた私にとって久しぶりに現実感のある出来事で、ほっこりすると同時に、青春時代の自分と今の(離婚問題に悩む)自分とのギャップに切なさを感じたのだと思う。

 その1か月後くらいに無事就職先も部屋も決まり、もちろんその男の子とばったり遭遇することもなく私は実家を出た。

 

おわり

f:id:shiofukin:20170920145902j:plain