「親友」のこと

友達がたくさんいた方が楽しい、などという考えは元々持っていないけど、最近は数少ない友人とすら定期的に連絡を取るのが億劫になりつつある。15年来の仲で1~2か月に一度は食事をしながら近況報告をするのが当たり前になっていた女友達にも、私から連絡すると言ったまま4か月ほど連絡をしていない。彼女も私に何らかの心境の変化があったのだとおそらく察していて、そこの説明をしなければならない事を考えると連絡を取るのが更に億劫になってしまう。

 

 少なくとも表面的には社交的なタイプで、男女問わず気になる人がいると「どんな人なのかもっと知りたい」という気持ちが湧いてくるので、仕事などで知り合った人を私から食事に誘ってみたりすることは割と多い。そこから意気投合して時々飲みに行ったり、何かイベント事があると声を掛け合ったりする仲になったりもするが、人間関係に対してマメな方ではないので、一定期間を過ぎるとだんだんと受け身になっていき、そのうち疎遠になってしまう。そういう“知人”はたくさんいて、むしろそのくらいの距離感の人とは「ふと思いだして連絡してみたんだけど今日空いてないよね…?」みたいな事で久々に誘ったり誘われたりしてまた関係がアップデートされると、こういう関係もいいなと心地よく感じたりする。

 

 “知人”のパターンとしてもう一つよくあるのが、酒場での知り合いだ。私は引っ越しをする度に近所の良い酒場を異常な嗅覚で見つけ出し、そこへ夜な夜な独りで呑みに行くというのを趣味にしているのだけど、そこで知り合った人たちと店外で会うことはほぼない。

 

  それは私にとって酒場というのが「自分の行きたいときに行って帰りたい時に帰ることができる」便利な社交場であり、その場にいる登場人物と他の場所で会ってしまうと、この特別な空間における人間関係のバランスみたいなものが崩れてしまうように感じるからだ。こう言うと非常に利己的に聞こえるかもしれないけど(実際まあそうなのだけど)、酒場での人間関係は酒場で完結させておいた方が色々と物事がスムーズにいくし、気に行ったお店に通い続けるためにもそれが賢明な選択なのだと、独り呑み歴13年の経験から感じている。

 

  という訳で、常に近所には「顔見知りのスタッフがいつ行ってもそこそこ歓迎してくれ、愚痴とか最近あったどうでもいい出来事を半分聞き流しながら聞いてくれて、たまたま隣に座った見知らぬ客と『さっぽろ一番の味噌、塩、しょうゆの中で一番美味しいのはどれか?』について延々とやり合う」ことの出来る酒場が2~3軒あって、その存在は私の生活に欠かせないものになっている。

 

  そんな“都合の良い酒場”の存在も後押ししてか、最近一部の友人との人間関係が煩わしく、連絡があっても返事をしない事が多いし、何となく腐れ縁的に続いていた男友達とも会うのを止めたし、SNSで時々連絡が来る幼少期や学生時代の集まりにも顔を出さなくなった。ふと「私は無意識に身辺整理をしているのではないか」と不安になったりもするが、何となくそういう時期なのだと自分に言い聞かせている。

 

  私のような人間にとって、「親友」とか「友情」という言葉は危険な言葉だ。小学生の頃にクラスメイトに無視された時も、中学時代に仲良し3人組のバランスが崩れた時も、高校時代に好きな男子の相談をしていた友達が彼と付き合い始めた時も、“親友とは常に清廉で、相手の事を思いやるべき存在”という概念に苦しめられた気がする。特に思春期の女子は「私たち親友だよね」などという事を言いたがるものだし、大人になってからも「幼少期からの親友」というものを必要以上に崇高に考える人は(私を含め)多いと思う。

 

  だけど大人になり、人生の転機を何度か迎え、「ライフスタイルや環境が変わりお互いの価値観や考え方も変化していくにつれて、親友が親友でなくなっていくのは当然の流れだ」と考えるようになった。それに伴い、「親友」という言葉自体もあまり使わなくなった。

 

  今の私には、とにかく人として好きで一緒に居て落ち着く友人や、仕事や物事に対する価値観を共有できる楽しい友人が数人いる。彼らとずっと友達でいたいという気持ちはもちろんあるけど、時の流れと共に通り過ぎていく人もいるだろう。

  友達というものはお互いの人生の中で自然淘汰されていく側面もあって、それは必ずしもネガティブな事ではないような気がする。そしてだからこそ、そんな流動的な人間関係の中でいま自分の周りにいる好きな人たちと出会い、友達になることが出来たのは、奇跡であり必然なのだと思うのだ。

f:id:shiofukin:20211110220916j:image